天台宗での念仏の唱え方
こんにちは。
天台宗寺院にも阿弥陀如来が祀られていることは多く、天台宗でも念仏(南無阿弥陀仏)を唱えるかと思いますが、
天台宗ではどのように念仏を唱えたら良いのかお教えください。
浄土宗のお十念と同じやり方で良いのでしょうか。
天台宗には天台宗の唱え方がありますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
天台の念仏の基本は発菩提心
拝
天台の念仏はそれだけ唱えていれば極楽に往生するというものではありません
その意味を理解しお唱えして意味があるものです
まず実践されるには
自らが仏様のような人になろうと思う事が大事です
これを初菩提心と申します
南無は〜様という敬称と同意です
阿という言葉は
全ての現象に原因と結果が生じるという
縁起の法則であり
弥という言葉には全ての物は関わり合って初めて存在している
諸法実相という意味があり
陀という言葉は全ての人(人以外という例外もあります)が仏陀になりえる種を持っているという意味があります
初めはこれを連想しながら念仏を唱える事がまずは大事かと
お気づきのように南無阿弥陀仏には修行形態としてしっかり悟りに近づくためのロジックがあります
お経を理解して長きに渡り何度も読むうちに体験とシンクロして理解が深まり
それまでの無知な自分を変えていきます
そして己の詰んだ己なりの
その功徳を亡くなった方が極楽に辿り着けますようにと念じます
その他にも沢山ありますが
まずはそのような感じで
お勤め頂ければ宜しいかと思います
回数は12回で結構ですが日々行う事が肝心ですね
ブツブツ
「観想念仏」が大切です。
はい、ございます!
天台浄土思想研究の先生に教わったお話と引用を下記に綴ります。
念仏と聞くと、「南無阿弥陀仏」と口に出して称(とな)える「称名念仏」を思い浮かべられるかと存じます。
しかし、実は天台宗における念仏の歴史はそれよりも古く、かつ「朝題目夕念仏」の如く日常でお唱えします。そして、その念仏はいわゆる称名念仏とは一線を画すものでもあります。
天台の念仏は、仏名を称えることだけではありません。念という字が「今」と「心」とあるように、今現在の心の働きを表現するものです。つまり、心に仏をおもうことが念仏という語の原意であり、天台の念仏の肝要なポイントです。
後代になって、念の意味に「称える」ことが加わったわけです。
元々、中国仏教では念仏を「名を称える」という意味よりも「仏をおもう」と捉えることが一般的です。
中国天台宗の開祖 天台大師も『摩訶止観』では常行三昧行を「念念歩歩声声」とあるように、阿弥陀仏を心に念じ(観想念仏)、歩き、口に仏名を称える(称名念仏)「観想」と「称名」が一体となった念仏行を提唱していらっしゃり、それを止観行としております。
日本浄土教の祖である恵心僧都源信は、天台大師の思想を受け継がれ「観想念仏」と「称名念仏」を同時に行うことを提唱しましたが、観想念仏ができない者は称名念仏のみでよいとされました。
また、天台における念仏は、自分のみが往生するためのものではなく、人々と共に往生し、共に成仏へと歩みを進めるための手段です。
心では、心の中の阿弥陀仏の姿や功徳を想い、口では「南無阿弥陀仏」と称え、身は合掌して頭を垂れ、その功徳を他者に振り向けることが肝要です。
その念仏こそが、源信の言う自利利他円満の菩薩行となるのであり、天台の念仏の特徴となります。
つまり、天台の念仏は心に仏を想うことが第一義であり、観想を助けるために仏名を称えるというのが原則になるわけです。
単に「南無阿弥陀仏」と称えて、心に何も想わないのは空念仏なのです。
因みに阿弥陀仏以外の仏様を観想することも「念仏」と言います。
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というお話を下記の著者の栁澤先生にご教授頂きました。
下記の本に天台の浄土思想が詳しくありますので深めたければ是非!(仏教書は高いですが…)
『日本天台浄土教思想の研究』https://qr.paps.jp/LqhO1