浄土真宗では般若心経を唱えない?目的はともにこの私が仏になること
お経の中でもっとも身近なのが、般若心経ですよね。
身近な人を亡くしたことをきっかけに自然と覚えられるようになった方もいらっしゃるでしょう。
それなのに、仏教に関心を持つに連れ「浄土真宗ではお唱えしてはいけないらしい?」と耳にし、疑問を持った方も少なくないでしょう。
宗派による違いは、素人では理解しづらいものですね。
そこで、お坊さんがどんなふうに考えればよいのかを仏教のお話を交えて応えてくださっています。
浄土真宗の仏前で般若心経をお唱えして申し訳ない
身近な人を亡くされてから般若心経が身近になったとおっしゃる20代男性のからすたろうさんのご相談です。
先日 浄土宗のお坊さんとお話ししていましたところ どうやら浄土真宗は般若心経と教えが違い般若心経は上げないと教えていただきました。
父方の親戚の仏前にてお唱えしてしまったことを申し訳なく思っています。
やはり、浄土真宗の仏前にて般若心経をお唱えする事は避けたほうが良いのでしょうか?
お釈迦さまの教えを理解し実践していくお経
各々が悟り・涅槃へと向けて、お釈迦様の善巧方便(経典)を頼りとして(法灯明)、それぞれ自分の行いをより善く調えて参りたい(自灯明)ものとなります。
般若心経も、お念仏も、その読誦・唱誦する真意のところを理解し、そして、自らの行いへと繋げて頂けましたら有り難くに存じます。
(岩瀧山 往生院六萬寺 川口 英俊)
般若心経は必要がないのでお勧めはしない
私は浄土真宗の住職でございますが、般若心経はお勤めいたしません。
決してお勤めは行わない、いけませんではなく、般若心経は必要がないという事でございます。
(慈敬寺 堅田正樹)
お坊さんの回答で否定した解釈ではないのが伝わって来ますね。
どうして浄土真宗では般若心経がお勧めされないのだろうという疑問に対して、お経に向き合うことの意味からお話くださっているので、向き合い方も心もち次第で変わって来るのではないかと期待したくなります。
相談者が般若心経やお念仏をどんな風に理解して受け止めるかによって、これからの行いも考えられるきっかけになれると嬉しいものです。
せっかく覚えた般若心経をお唱えしていけなかったのだと申し訳ないという思いを払拭されて、すっきりとした気持ちで般若心経とのつながりを持てるようになってもらいたいと願わずにいられません。
元の問答:浄土真宗で唱えるお経 般若心経はダメ?
般若心経に救われたのに浄土真宗ではダメ?
あるテレビ番組をきっかけに出会った般若心経に救われた40代女性の北斗星さん。
こちらも、宗派が浄土真宗であることで般若心経を唱えることに釈然としない思いをされてのご相談です。
わが家は浄土真宗なのですが、浄土真宗では般若心経を唱えるべきではない、と聞き拍子抜けしてしまいました。
般若心経の教えに救われた私としては、何だかスッキリしません…。
決して無意味ではない
浄土真宗では般若心経を用いませんが、それを知ることは違う視点で浄土真宗を理解する手助けになるでしょう。決して無意味ではありません。
(林鴬山 憶西院 超覚寺 和田隆恩)
決して無駄なことはありません。 般若経は沢山あってその中の一つが般若心経です。 般若とは智慧のことであり、仏さまの智慧が説かれたお経です。
(崇興寺 釈心誓)
ベクトルの違いがあっても気づきが得られる
ベクトルこそ異なっていても、その究極の目的は、ともにこの私が仏になることにあります。
(真行寺 亀山純史)
お坊さんのお言葉に対して、北斗七星さんは以下のようにコメントをされています。
般若心経を知ることは決して無意味ではないというお言葉に安心いたしました。ベクトルが異なっていても、その究極の目的は同じというお言葉に安心しました。
阿弥陀さまの願いによって、私たちはすでに救われている、という考えは、実際にはまだピンと理解できませんが、なんだか温かく響いくお言葉ですね。
北斗七星さんは、お坊さんのそれぞれの回答に安心感を得られていますね。
また、さらにこれからも学んでいきたいという気持ちを持たれ、穏やかさを得られた様子がじんわりと伝わって来るので、こちらまで温かな気持ちになれました。
安らかな心もちで、お経を通じて自分の行いを省みるようになりたいものですよね。
元の問答:浄土真宗では般若心経は無意味なのですか?
胸に残るモヤモヤしたものをお坊さんならではの言葉で、「なるほど!」と感じる珠玉の回答をご紹介しました。
すぐに答えが出なくても、お坊さんの回答により自らが良いと感じる方向へそっと導いてもらえている気がしています。
「決して無駄でない」という言葉に、自分を認めることができると自信も持てそうですよね!同じような悩みを抱えておられる方も、般若心経やその他のお経に巡り会い、迷いなく読誦できるようになれると、穏やかな気持ちで仏前に迎えるようになれるのではないでしょうか?
その姿、行いをきっと仏様が温かく見守って下さるように思えます。