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批判されることに対して構えすぎる

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有り難し有り難し 15

いつもお世話になっております。なかなか自己解決できず、同じような質問を繰り返してしまう私ですが、寄り添っていただき感謝いたします。

相談は、人からの批判が怖く、何か指摘を受けるとひとつの考え方だと受け流すことができず、否定されたように感じ深く落ち込みます。壁を感じる、自分の感情を大事にしすぎとよく言われます。私自身、自分のことしか考えられない自分が嫌いです。

また、教員を10年ほどしていますが、未だに生徒が言うことを聞かないたびに、また人に何か説明するときに伝わらないたびに、自分のことを否定されたように感じ、常に焦っていて辛いです。
何か起こると自分のせいだと感じている気がします。

自分を守りすぎる癖と、自分のせいだと思いすぎる癖を和らげてもっとおおらかな気持ちで人と関われる自分になりたいです。どうかアドバイスお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

出家的(独立・自立)分析マインドなものの見方

目が不自由なある女性が坐禅修行・参禅(=自分の心のありようをみつめていく修行)を続けていく中で、ある時に「怒っている事」と「言いたいこと」とは違うのだとわかったそうです。
(# ゚Д゚)怒りは怒り。感情と主張・話とは別。
人間はすぐに感情的に言いたいことをぶちまけてしまう所があるですが、怒らずに言えるようになった方が争い・ケンカ・ドンパチ・修羅界は無くなります。
同じように、批判されること・相手から何か言われることも同じです。
混同化してしまっていませんか。
本当はあなたのように他人の言葉を悪いものだと思ったり「悪く」受け止めないほうが良いのです。そのためには先走る自分の事業仕分けを止める。心の中の仕分け女性を解雇する。言葉は言葉。好き嫌いは別。後にすべきこと。
勿論、職場にキョーレツなパワハラ人間がいるのだとしたら、それも別問題です。
言い方がやさしい人の方が、きつい人よりは害はないわけですから、あまりにその人が過激な場合はそれはその人が問題です。
ですが、批判は批判であって攻撃・DISり・悪口ではありません。あなたに必要なのはその時の負のリアクションを見抜く力ではないでしょうか。
👵「ああ、私は今まで、あの人の言い方がキツイので、あの人の言葉のトーン、口調、言い方が気に食わないということばかりが気になっていたけど、あの人のイイタイコトは別に私に対する攻撃とか、嫌がらせとか、そういうことじゃなかったのね。」
私は冒頭からさほど感じの悪い言葉遣いをしてきたわけではありません(感じ悪いと印象を与えていたらすみません)が、これだってあなたの側からすれば、相手がただイイタイコトを言ってるだけの事なのです。
あなたに対する批判は批判ではないということを読み取ってくださいという意味です。
その批判はただの相手の言っている事であってあなたを責めたり、否定したり、非難している者でもなんでもニャイものなのです。
ネコだって、じゃれて噛みついてくることはあります。🐈本人は遊んでいるつもりです「あまがみ」でも噛まれた方は痛いものです。ですが、ネコLOVEBEINGからすればそのあまがみは何でもないものなのです。(皮膚丈夫)アンチ猫勢力や猫アレルギー民にとってはネコに近づくことも脅威。でも、脳内事業仕分けをもちこまない。
あなたに必要な真言
「先立つ思考がそのものを別物にしている」

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

私は、世の中敵の方が多いみたいな思考だったかもしれません。
また無気力なのも、何もかもやる意味がないみたいな思考でいっぱいだった気もします。
自分から不幸になっていっていたのかもしれないと思いました。自分を幸せにしていきます。

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