日々に追われて辛い。頑張りの意味は何?
大学4年生の女子です。
現在、1月末提出の卒業論文と2月初めにある国家試験の勉強を控えながらも、コロナウイルス感染症の影響で延期になっていた実習を2つ行わせていただいています。
実習はずっとしたかったことですし、自分で行きたいと決断してさせていただいているのですが、正直だんだんと疲れてきました。心が日々についていきません。
本来ならこの時期は、卒業論文と国家試験の勉強に力を入れられるはずなのに、それもままのらず、周りの友人達に差をつけられていることにも焦っています。
私と同じ実習先に行くはずだった友人は、実習がめんどくさい、国家試験や卒業論文のことも不安だ、といって直前になって辞退しました。
辞退することで実習先に迷惑をかけることを考えずに辞める決断ができる友人が羨ましいと思いました。この感情の裏で、友人の決断の方が賢明だとわかっているのにその決断ができない自分に怒っているのだと思います。(実習に行かないと資格がとれないので行くしかないのですが…)
大学の先生方が、辞退した友人のことを「コロナで延びたんだし、あなたの判断は何も悪くないよ。」と庇ったことも辛かったです。頑張って実習に行く方が馬鹿らしいなと思いました。
話が逸れてしまいましたが、友人のことなどがずっと引っかかったまま実習に行き、毎日毎日何かに追われて、たくさんのことを両立しながら過ごしていることが辛いです。
この今の頑張りに何か意味はあるのか、わからなくなっています。
もし実習のせいで国家試験や卒業論文が悲しい結果になってしまえば、私の実習に行くという判断が間違いで、元も子もない結果をもたらした意味のない頑張りになってしまうのではと怖いです。
迷ったら苦しい道を選べ、なんて言葉がありますが、本当にそうなのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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「意味」を「意味」たらしめるのはあなた
こんにちは。
「この今の頑張りに何か意味はあるのか、わからな」いとのことです。
人間は、上手く行っていない時ほど「意味」の存在を問います。
しかし、あなた自身「意味」は分かっているのでしょう。「実習に行かないと資格がとれない」、「実習はずっとしたかったこと」、実習の先に「国家試験」があり、「卒業論文」の提出しなければ卒業できず就職ができない。
「意味」の存在自体は明らかなはずです。
むしろ、「意味」の有無が問題ではなく、「意味」を「意味」として思えない自分がいる、このことにこそ問題の所在があります。
なぜ、あなたは自明の「意味」を「意味」と思えないのか。
それは、あなたが他人との比較の中で「意味」を考えているからです。
「実習がめんどくさい、国家試験や卒業論文のことも不安だ、といって直前になって辞退」した「友人」がいた。具体的な学部がわからないので確たる事は言えないのですが、この「友人」は「実習」という4年間の学業の集大成である実践訓練に行かずして何のためにその学部に行ったのでしょう。私から見れば、それが「友人の決断の方が賢明」とはとても思えません。
また、「大学の先生方が、辞退した友人のことを」「コロナで延びたんだし、あなたの判断は何も悪くないよ」と「庇った」ようですね。あなたはこの光景を見て「辛かった」「頑張って実習に行く方が馬鹿らしいな」と思ったようです。
その先生方は、「辞退」したあとだったからこういうしか無かったのだと思います。恐らく事前に相談も受けていたのでしょう。また、コロナによる学生の心への影響を配慮した教育者としての発言であって、本心はちゃんと実習も全うしてほしかったのだと思います。
あなたは、人の出方によって自分の大切な「意味」が変わるのですか。
「意味」を「意味」として思えなくしているのは、自分自身ではないですか。
あなたは、既に「意味」を分かっている。
あとはがむしゃらにやるだけです。
「意味」を「意味」たらしめるのは、あなた以外にいないのですから。
応援しています。
質問者からのお礼
お返事いただきありがとうございます。
仰る通り、私の中では既に意味が存在していると思います。なので、やるべき事をやらなければ後悔するのは目に見えています。
ただ、今は色々な事が重なって疲弊しているのだと気付きました。でもこのまま投げ出してしまうのは自分のためにならないので、なんとか踏ん張りたいと思います。
現時点での苦しさから甘えが出ていましたが、逃避するのではなく頑張るためにどんなふうに休息をとり、自分を労っていくのかを考えたいと思います。
ありがとうございました。