老親との今後の心構えを教えてください
子供の頃から、家族というものに違和感を感じていました。妹には甘く、私はどんなに頑張ってもだめな子だとのレッテルを貼られ、いつも家族から阻害されていました。成績も、運動も何をやっても私のほうができたにも関わらず、いつもあらを探すように責められていました。辛くて辛くて、逃げるように今の旦那の結婚し、両親との縁を切るつもりでした。
ですが、転勤するはずが地元に残る事になり、両親のそば(車で10分ぐらい)の場所に住むことになりました。そのためか、両親は、週1回は必ず現れ、食材を運んでくれるのです。文字で書くとありがたいことだと思われると思います。でも、いつもそこに違和感がありました。いつも監視されていて、いつも私達の判断に何かしらの意見、ケチを付けてくる。そして、それを自然のことのように受け入れざる得ない自分がいました。
結婚式には、なんであんなやつと、妊娠時には子どもをおろせ、生まれたばかりで入院しているときには不妊手術をしろと言ってくる(断りましたが...)また、たまに実家に行くと妹と母親で私の旦那の悪口を言ってくる。お前は常識がない、貧乏だ(そんなには裕福ではないですが)、援助してやってる(なくても大丈夫ですが…)傷つくことをポンポン言ってくる。私は、薄ら笑いをして聞き流す…今思えばなぜ反論もせずいたのか。
両親は今、車の免許を返上し、もう週1でかならず来るという習慣はなくなりました。すると、ギクシャクしていた夫婦仲や、家族の仲はとても良くなりました。いつも不調で悩んでいましたが、今は元気があります。
最近、両親は物忘れが酷く、体力も落ちてきて昔のような勢いがなくなりました。妹は、精○障○者手帳を交付されました。
いずれ、両親の面倒を見ることでしょう(妹とは連絡を絶ってます。)。表面的には面倒を見ると思います。でも、こうして弱っていく旧家族を見るにつけてザ○ミロという気持ちがふつふつと湧いてでてくるのがわかります(特に母と妹)。でも、表面的にはお客さまに見せる笑顔で対応しています。そして、そのフツフツとするその思いは、誰にも出さないようにしています。
いろいろ恩はあると思います。でも、私はサンドバックだったんだと。みんな打てなくなった途端病んだのです。
私はこんな怒りを持ったままでいいのでしょうか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
どうか怒りは捨てて下さい…あなたのために。
お気持ちお察し致します…これまでつらい人生を歩んでいらっしゃったのですね。
ご相談内容は深くまた大変長くていらっしゃいますが、ご相談最後の『私はこんな怒りを持ったままでいいのでしょうか?』の一文に全てが集約されているように感じます。
結論申せば、とにかく「怒りは手放して下さい」…このことに尽きます。
それはお歳召されたご両親のため、御心を病んだ妹様のため…ではありません。
あなたのためです。あなた御自身が本当の心の安らぎを手に入れるためです。
ご両親は確かにあなたに対して「過干渉」ともいえる接し方をなさっていらっしゃったように思います。あなたに対して随分な言葉、態度でいらっしゃいました。
でも、それはあなたに対する「愛情」また「期待」の裏返しだったのではないでしょうか。
ご両親の愛情があなたより妹様の方に向かっていたようなのは、親として妹様のお心の弱さを既に見抜いていて、そのために心配をなさっていらっしゃったからではないでしょうか。
そしてその分、あなたへの期待値がどんどん上がり、結果あなたを追い詰めることになっていった…いかがでしょう。私の妄想に過ぎませんか…?
どうか、一生懸命に生きていらっしゃった御自分を誉めて下さい。あなたは尊い人間であって、決して「サンドバッグ」であるはずはないのです。
今あなたは『家族の仲はとても良くなり』『不調で悩んでいましたが、今は元気があります』とおっしゃっています。
ならばこそ、ご両親、妹様に向けるのは「怒り」や「憎悪」ではなく、「慈愛」の眼差しであるべきでしょう。
相手に向ける怒りや憎悪は、あなたをも怒りや憎悪で包み込み、激しい怒りの炎があなた自身を焼き尽くしていきます。
一方で、慈愛もある意味では同じようにはたらきます。相手に向ける慈愛が、あなた御自身をも包み込み、あなた全体を慈愛の香りで満たしていきます。その香りが周囲にまで届き、その香りが周りの人まで幸せな気持ちで満たしていくのです。
どうでしょう…。怒りを今すぐ捨てて下さい。怒りを捨てられたらラクになれます。笑顔になれます。すぐに笑顔は無理でも、どうか ため息と共にでも結構ですから、今とは違う方向へと歩み出しましょう。それが間違いなく「本当の幸せ」に向けた歩みになりますよ…。
仏様がこれからもずっとあなたに御一緒下さいます。
質問者からのお礼
温かいお言葉をいただきありがとうございました。すぐにお礼を伝えたかったのですが、なかなか言葉にすることができませんでいました。返答遅くなり失礼いたしました。
『慈愛』とはなんだろう?と思い、辞書で調べてみたり色々考えていました。昨日、仕事で大きなミスをし(後日単純な入力ミスで大事には至りませんでいたが…)皆さんにご迷惑をかけました。が、職場の人も今の家族、みんなが大丈夫!と誰一人私を攻めず、気を病まず次気をつければいい、と言ってくれました。そのことで、気が付きました。今、私の住んでいる生きている場所は、愛のある場所なのではないだろうかと。また、もし、他の誰かが大きなミスをした時、私はどうするのだろうかと考えました。私はかつての家族のように、欠点をあげつらい笑いものにし、相手を攻め立てたりすることはないでしょう。私にしてくださった同じ態度をその人に向けるはずです。きっとこれが慈愛?のあるところなのかなと思いました。
ということは、お坊様のおっしゃる『怒り』がもし私にあれば、誰かが私のようなミスをした時、ひどく辛く当たってしまうのでしょう。するとコミュニティーは、一瞬にして居心地の悪いひどい環境に変わってしまう...だから怒りはいらない。極めて有害な危険物質だということにならないかと。
もしそれが今の自分の中にあるとしたら...早く捨ててしまいたい。私は慈愛のほうが好きです。いつまでもこちらの方に居たいと思います。
ただ、子供の頃は、もうほんとになんとも伝えることのできない言葉の暴力が飛び交う家庭に居たのは間違いないと思います(同居の祖母が心の病でしたので...)。家庭内に怒りがあったのでしょうか。
ですが、習い事や学校の先生、友達の家族など、周りの大人が助け舟や温かい言葉をいつもかけてくれたのも、また間違いのないことです。家でどんなに惨めな思いをしていても私にはいつも誰かしら良い友達がいました。『仏様がこれからもずっとあなたに御一緒下さいます。』とのお言葉で、そうか、これまでもそばにいてくださったんだ、一人じゃなかったんだ、と思えるようになりました。本日お坊様にお会いできたこともその一つだと思います。本当にありがとうございます。
最後に、両親に対して怒りを持たずにいられるだろうかと考えました。結論から言うと、両親だと思わなければいいんじゃないか?と思いました(変ですかね?)子どもたちの大切なおじ、おばーちゃんだと思えば大切にできます。一人のただの人間だと思えば平気です。こうすると、怒り?が不思議となくなるのです。当面はこれで行こうと思います^^;
ただ妹は、すぐには無理かもしれません。かつての母が蘇ってように、暴言を吐き、細かなことで脅してくるからです。すると、体が硬直してなんにも考えられないような惨めで苦しい気持ちになります。連絡を絶った最後の暴言から半年ぐらいはそれが蘇り悩み続けました。彼女の病が(病からなのかは不明ですが)良くなることを祈るしかないのかもしれません。
長々と失礼いたしました。
ずっと心に引っかかっていたことを、お話できて感謝しています。とどまって動けないでいた気持ちが少し前進できたように思えます。ありがとうございました。ご相談できて本当に良かったです。大変勉強させていただきました。ありがとうございます。感謝です。