人の心は読み取れない、とはわかっていても
まさか自分が3回も相談するとは思いませんでしたが、相談したくなりました。
というのも、私がこのサイトを、自分に対しての罪悪感や嫌悪感が生成されているときに訪れます。その際には、自身と似ている悩みを探し、お坊さんの回答を読んでいます。その中で多くは、「仏様や相手のことを思ってください」や「それでも自身が幸せになる権利はあります」という答えが多く寄せられているような気がします。
しかしながら一方で、過去にいじめを受けていた芸能人が大人になり、母校でスピーチをした際「私はいじめた人のことを許しません」と発言していたニュースを見たり、ネット上では「自分をいじめた同級生が、今は教育者や地位の高い人に就いていることに不信感を抱いている」という記述を読んだりし、疑問に思いました。
いじめた人から受けた人に直接的に連絡し、謝罪できる環境が整っていればよいのですが、時間がたつと、そうもいかない場合がほとんどです。しかし、当時いじめていた人が、だいぶ時間がたって反省・懺悔した場合でも、相手にはそれは気が付かないでしょう。受けた側は「いじめた人はどうせのうのうと過ごしているんでしょ」と思い続けているんでしょう。
連絡もできない、時間もたっている。しかしそれでも、長期間の時を経てやっと謝罪することができるようになった。これは本当に相手には届くのでしょうか。
ご回答よろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
大切なのは今の生き方
お悩み拝読しました。そのお悩みの答えになるかわかりませんが、大切なのは自分が今ここでどう生きるかということのように感じました。
小学生、中学生、高校生という学校生活では、私もいじめがありました。時には加害者に、時には被害者にもなっていたように思います。苦手なクラスメートがいて、嫌がらせをした記憶は今も鮮明に覚えています。そのことには、ご本人に会ったり話したりする機会はないけれど、いつも「悪いことをした。なんであの時、自分はあんな行動をしたのだろう」とはっきりした理由もなく、ただ、申し訳ない気持ちでいっぱいになり、自分自身が2度とそういうことをしないようにという思いと、今の学生さんたちの間でも起こらないようにと祈ることがあります。
意図的でなくても、人は、人を傷つけることがあります。何気なく言った言葉が、ある人には普通なことでも、ある人には嫌味に聞こえてしまって落ち込ませた、なんていう経験が、私にはあります。人を傷つけることなくして生きることは、よほど神経が行き届かない限り難しいことかもしれません。
もし、そのことに気が付いたら、意識をして謝ること、そしてしないように気をつけると誓うこと、自分が誰かを傷付けてしまっても誰かに助けられて生かしていただいていることに感謝をすること。それが大切だと思っています。それは、生き方の姿勢でもあります。
姿勢が変われば、直接昔の友人と会うことがなくても、巡り巡って伝わるのではないかと思うのです。過去の出来事は過去でも、大切なのは今の生き方だと思います。
何度でもごまかさずご相談ください
過去のご相談と併せて拝読しました。
あまり問題を抽象化・一般化しすぎない方がいいと思います。問題は
①あなたと(過去の質問で出てきた)Aさんとの関係
②あなた自身の罪悪感
のようですね。
まず①について、Aさんとはネット上だけの関係でしょうか?リアルの関係もあるのでしょうか?いずれにしてもあなたに謝罪の意思があり、そうすることが可能ならば謝罪しましょう。もちろんそれを受けて相手が許すかどうかは相手次第です。
しかし、仮に相手が許さなくとも、自分自身がきちんと非を認め、謝罪をできたということに一定の達成感は得られるのではないかと思います。
次に②について。仏様に託す、預ける、聞いてもらうといった方法を以前の質問や類似のご相談から学んだようですが、そんなに単純で簡単なものではないと思います。
それはあなたが思いもよらず3回もご相談されたという事実が証明しています。
仏様がどのように私たちを救おうとなさるかというと、私たちの気持ちを楽にさせえてくれたり、都合の良い出来事を起こしてくれたりということではありません。
仏様はありのままに物事を見ること、すなわち自分とは何か?といことを明らかにしてくださる存在(はたらき)です。
自分で自分がわからないと罪悪感を自分が感じるべきでない不当な感覚として排除しようとします。
しかし本当に自分の姿がはっきりするならば、自分というのは縁(条件・環境)さえ整えばどんな罪をも犯しかねない存在だと認めざるを得ず、もしそのようにしてしまった時の罪悪感についても自分が受けるべきものとして享受していけるのではないでしょうか。
それは「自分が悪い」というような薄っぺらいものではありません。自分で自分をどうしようもできない、自分から何が出てくるか分からない、それほど深い迷いを抱えた存在であると知らしめてくれるのが仏様の教えです。
それは暗いようで実は明るいのです。自分の底が知らされるということは。
相手に届く、届かないという問題は現実的にありますが、もう一方で、自分とは何か?ということをどれだけ深められるかが、あなたのこれからを左右するようにも思います。
質問者からのお礼
吉武文法さん、慈正さん、ありがとうございます。
Aさんとの件ですが、実はそれなりに解決しました。ご配慮ありがとうございます。
仏様は、「自分とは何か?といことを明らかにしてくださる存在」でありながらも、「暗いようで実は明るい」ということでしたが、私には、暗さの先に明るさがあるのだと感じました。人間特有の「深い迷い」が自身を劣等化し、仏様に頼る。しかしそこでサポートを受けても、最初は「自身の底」を知ることでさらに暗くなるものだと考えました。しかし、無知の知とあるように、自身がそれを知った先に明るさがあることであると認識しました。
私はかなり過去に引っ張られる性格な人なので、現実(や未来)に後ろ向きで向かうことがかなり多いです。また、「自分が今ここでどう生きるか」。何か悩みを持った時に確かに周りから言われます。過去は動かない、未来のみ。そして、「姿勢が変われば~巡り巡って伝わる」も、小さいころから親に言われました。ただ私の中で、めぐる、と言っても誰から誰へ、というものが、当たり前ながら不明であることは正直そこもモヤモヤとする一つではあります。もちろん気を付ける、という実行の点では差異はありますが、結局精神論(という言葉で片付けるのは正しくないと思いますが)で収束しなければならないのも、なんかさみしさを感じました。まぁ人の心はAIではないので、こればっかりはしょうがないですね。