今後の両親への対応について
私は母親に暴言、暴力を受けて育ちました。
暴力は中学生くらいまででしたが、暴言は大人になっても続きました。
厄病神、あんたなんか産まれてこなきゃ良かった、いても何の役にも立たない、気持ち悪い、死んでくれれば良かったのに、という感じです。
父親は私が小さい時不倫しており、母親の暴力を見ても特に止めもせず、また何故暴力するのかという原因にも触れようとはしない人でした。
高熱が出た時は朝までソファーで寝かされ、
洗面器に吐くように言われ、自分たちは友人と麻雀を朝までしていました。
自分に自信が持てず、それを両親のせいにしてずっと恨んでいましたが、
それも自分が疲れる事に気付き、
あの時両親は大変だったのだと、親も自分と同じ完璧な人間ではないのだと色々模索し、
嫌な感情を以前より手放す事が出来てきました。
今では自分の子供達を時々しか会えませんが可愛
がってくれ、感謝しています。
ですが、自分の親を好きかと言われると
未だに好きになれず、
もし彼らが困っていても正直心から助けたいと
思えません。そしてその様な自分に罪悪感を感じます。
周りの人はみんな親を大事にして、
尊敬して居るのに、
どうしてそれが私には出来ないんだろうと思います。
私には感謝の気持ちがまだ足りないのでしょうか。どうか私にアドバイスを下さい。
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十分すぎるほど尊敬できていますよ
エニシ様はじめまして。ご相談拝見しました。
暴力や暴言を受け続けながらも、その恨みの苦しみからご自身を解放なされ、今では感謝しているとのこと、けして簡単にできることではありません。頭が下がる思いでいっぱいです。
さて、当時の御両親のことを「あの時両親は大変だったのだと、親も自分と同じ完璧な人間ではないのだ」と受け止められたとのことですが。
それこそが本当の意味での「尊敬」ということではないでしょうか。何も、人として人格や人間性が素晴らしいとか、素行が良いからとかでその人は素晴らしい人だと認めることだけが尊敬ではないのです。
尊敬とは、その人がたとえ人間的にどんな人であっても、他の誰とも代わることのできない唯一無二の人間であるとその存在を認めることでしょう。
同じようにかけがえのないいのちを生きる、「尊い」存在であると「敬う」ことでしょう。
人は本来、みな尊いいのちを生きる存在なのです。ですが弱い生き物ですので縁に促され悪行を重ねることもあります。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人は、そうした人間の姿を「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」と言い当てます。
縁がととのえば何をするのかわからないのが人間です。
そうした人間的な行いに目をとらわれて、いのちの尊さを見失うことのなかったエニシ様の眼は、たしかに御両親を敬っておられます。
昔された人間的な行いを許せないご自身の心を許してあげてください。感謝が足りないなんてことはありません。
質問者からのお礼
吉武文法様。
回答ありがとうございました。
尊敬とは、素晴らしい!と思う事だとばかり考えていました。
尊敬とは、その人を認める事。
今の私は確かに唯一無二の人間と認めているから、両親と付き合いを持てているのだと思います。
そしてこれからは、自分自身の存在も認めてあげようと思えました。
本当にありがとうございました。