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殺されてしまう人と最期まで生き延びれる人

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有り難し有り難し 12

昔の自分は悪い事した人達が天罰がくだりますようにとお経を何千回も唱えてしまったり、イライラした事でなんでも物を壊していました。今はそれは全部悪い事なんだと気づき、不動明王様に毎日「もう悪い事しないように見守っててください。もし悪い事をしたらちゃんと許されるまで償う道に行けますように。」と祈っています。ですが、ニュースで沢山の殺されていく人々を見てきて、自分もいつかは殺されるのだろうかと覚悟しないといけないのでしょうか?言い方が悪かったらすみませんが、殺されてしまう人と最期まで生き延びれる人の違いはあるのでしょうか?よろしくお願いします。

2022年10月2日 20:17

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

縁というハタラキ・作用が、キッカケとなって結果に転ずる✨

いわゆる良い事、他人が喜ぶようなこと、この世の素敵な法則にかなったことをすれば良い結果が生まれます。
反対に悪い事、人の嫌がることをすれば、それがそのまま結果となっておかしなことが生じます。
ここでいう良い結果、悪い結果とは人間が願い求めるような絵にかいた良い結果、悪い結果ではありません。
世界を見てください。
悪事をなす一国の独裁者がどんなに悪いことをしてもすぐに地獄に落ちるようなことはない。ですが、すでに悪事がおこなわれた以上、その周囲に悪意、悪事、悪気、悪感、悪い状況、悪い環境が生じています。救いがない。
それが拡大すれば犯罪、テロ、戦争、無関係な人にとばっちり。
何も悪いこともせずに平穏に暮らしていた人にまで悪意・悪事のとばっちり。
世界は大きな一つの水槽です。誰かが水を汚せばその汚れた水が誰かに影響が及ぶ。水を浄化しようとする活動があれば、それによって助かる人がいる。
だからこそ、宗教も仏教も教育も道理にかなった形で人々の手によって正しく行われなければならないのです。アンパンマンや正義の味方系アニメのように「誰かがやってくれる」わけじゃァないので、わたしもやる。あなたも善意を起こしてやらなければあなたも、まわりも、変わらないのです。
世界を浄化しようとする心や、善玉菌を増やそうとする活動は、万人が、ひとりひとりが。誰もがその心を持たないとね(´-`)ということなのです。
誰かが誰かを殺そうとする?
そういうことをして喜ぶ人は誰もいませんよね。
だから善玉菌精神、浄化精神、善導精神でそういう人もそんな気持ちにならないようにソフトにプッシュしてあげなければいけないわけです。
(# ゚Д゚)♡(´-`*)
畑の土だって放っておけば固くなります。
ちょいと耕せば「変わる」。
そこに種をまけば芽が出る。
花が咲き、実を結ぶ。「結果」となる。
ただし良い縁を加えなければそうはならない。
この世の中はどうせダメだ、オシマイダーと嘆いていれば、それはそういう縁をあなたが加え続けている姿なのです。
変わらないと信じてそれを選択してやっている姿。
同じことをしているという縁を加えている姿。
暗いことを考え続けようと選択している姿なのです。
だから、その無自覚ながらに同じ負のループを繰り返してしまう自分の心のクセに気付いて同じ事をさせないように転ずる。✨それが良縁となるのです。

2022年10月3日 9:37
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

自分がすべき事は良い行いをして生きる事だと実感しました。ありがとうございます😊

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