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人を優先して自分が苦しいです

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有り難し有り難し 19

「自利利他」のお話を講演会で伺い、かなり衝撃を受けました。

これまで「他」を優先してきました。
人のために尽くすのが正しいと思って生きてきました。

人に優しくありたい、誠実でありたいと常々思っておりますが、そうしようとすると「他」を優先することになってしまいます。

どのような心持ちで日々を過ごせば、自分を大切に「自利」を優先できるのでしょうか。

自分を犠牲にして「他」を優先しているのに、うやむやにされたり返事を返さなかったり人の時間を奪うような行動をされ、謝りもせず無下にされて自分だけが損をしているような気持ちでいます。
見返りを求めているようで、それも嫌です。

日々、「他」のためにやらなければならないことに押し潰されて現在がいっぱいいっぱいであり、自分の未来を見ている余裕がありません。
そんなことをしている間に「他」が幸せになっていくのを見てきました。

人に優しくありたいと思っている人が優しくされることはなく、ただ傷ついていくのはとても辛いです。
この先も、このまま苦しいのかと思うと何のために生きているのか分かりません。

ずっと辛いままであることから逃れるには、自身の生き方考え方を変えなければならないのでしょうか。

2022年10月26日 0:05

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ハーモニーそわか

ギターをやるBOSEです。🎸
ツインギターでは盛る時には自分が強すぎるとハモレないのです。
自利だけでは❝総じて❞美しくならない。
あるいは遠慮しすぎて弱弱しければそれも美しい響きとはなりません。
🍳つい先ほど、そろそろ店頭に並ばなくなる落花生を茹でておりましたの。
あ、料理もやるBOSEザマス。
生の落花生は塩ゆでが美味しいです。
ところが塩を入れ過ぎてしょっぱいったらない…。どうしましょ。
薄くても自利利他にならず。塩が濃すぎても自利利他にならず食材を無駄にします。それでも活路を探すのです。あ、ご飯に入れて炊けば丁度いいんじゃないかと。保存も効くし、ご飯もちょい塩テイスト!(´-`*)✨ウマソ
自利利他とは犠牲的精神ぢゃぁダメですぞ?という話です。
自利利他とは同時、同事。
あなたも幸せで相手も幸せになれるように行えということで読み違えると犠牲的な精神だと誤解する人が多いです。要注意。
プロデューサーがアーティストに花を持たせて、利権も独り占めせずにちゃんと作品やアート性、個性を尊重してあげるようなものです。それがない我利我利亡者は自分のためにだけにやる。
話はちょいと違いますが、半身浴🛀をやる際にどうすればいいかわからないという人がおられまして「皆さんは半身浴というのはどうやっているのでしょうか?息が続きません…。」という方がおられました。むしろ一体、どうやって半身浴をしようとしていたのか想像してみてください。上と下でしょうか。右半身と左半身だったのでしょうか。結果的にその話を聞いた人の心を半分笑いでHOTに温めてくれました。
言葉というものは読み違えるとあらぬ方向に向かうものです。
カルト宗教ではむしろそこをついて読み間違えを利用するものもあります。
今も世間で問題になっているカルトなどをみてください。
どうして、教団にだけ献身的で自分の幸せを放棄する様な生き方でよいものでしょうか。
私のこの回答もあなたがより豊かな生き方を見出してくださって笑顔になって下さればうれしいのです。
今まで他者のために一生懸命に尽くしてくださったことは素晴らしい功徳です。
それだけの功徳を積めば、今後はちょっとした負担も身軽にクリアーできるでしょう。人と人は良い事で調和することが大切です。一方が元気がないと美しい響きをなしません。調和、ハーモニーの成就の精神が自利利他です。

2022年10月26日 1:28
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

自利は悟りを目指すこと

仏教の自利利他は、自分の悟りに役立つことを行い、他者も悟りに導くことでしょうね。
ですから、自利は、あなた自身が、真理に気付いて悩み苦しみを減らすこと、煩悩を制御したり消したりすることだと言えます。
また、他人のために慈悲や布施を実践するのもあなたご自身の悟りにつながる善行為なので、利他の実践にも自利の効果が付いてきます。

2022年10月26日 12:46
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有り難し
おきもち

がんよじょうし。浄土宗教師。「○誉」は浄土宗の戒名に特有の「誉号」です。四十代男。 仏教は、悩み苦しみを制御したり消したりするための教えです。まだまだ未熟者の凡夫ですがよろしくお願いします。

質問者からのお礼

丹下 覚元 様

ご回答を頂き、ありがとうございました。
「自利利他とは同時、同事。あなたも幸せで相手も幸せになれるように行えということ。」

相手の利だけではダメなのだとわかりました。
人との調和を大切にできるようにしたいと思います。
ありがとうございました。

願誉浄史 様

ご回答をいただき、ありがとうございました。
「自利は、あなた自身が、真理に気付いて悩み苦しみを減らすこと、煩悩を制御したり消したりすること。」

利他が自利に繋がるとはいえ、自利が悟りをひらくこととすると、私は悩み苦しみだらけだなと感じました。
仏教の言葉の意味は奥が深いです。
お教えいただき、ありがとうございました。

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