言い返すべきだったのか
お世話になります。
先日、お世話になった方と関係を断ちました。
その方が外出先で罹った病気を「お前が私にストレスを与えたせいでこんな病になった、色々してやったのに恩知らずだ」と言われため、とっさに相手を気遣う言葉を伝え謝ったのですが、無茶苦茶な言い分なのに何故咄嗟に謝ってしまったのかと後悔しています。
その方は一見穏やかですが、お付き合いしていくうち「こうするべきだ、こうあるべきだ」が口癖で、許せない事が非常に多い事に気付きました。
理想家で性格も穏やかな人と思っていたのですが、他者へも自分の理想を押し付けていて、誰それはこんな酷い人だ等と吹聴していました。
お金も能力もある方なので周りも言い返せず、その方に気を使ってビクビクしていました。
メールについても、要約すると「その方が期待する、理想の私ではない」から怒っているとしか思えないもので、以前にも周りの人に対して許せない事が多すぎてストレスで体調を崩している事が何度かあったようです。
最初は「頂いたメールは無茶苦茶だけど、病気のせいで辛いのだ、私が直接の原因ではなくとも私が謝る事で病気が治るなら…」と思っていたのですが、ただ相手の言い分を鵜呑みにして全て認めたような返事を送ってしまい、自分の立場からのメッセージはほとんど伝えられませんでした。
いくらお世話になったとはいえ、私はその方の操り人形ではありませんし、自分を守る為にも関係を断った事自体は後悔していません。
複数の友人に相談すると「この人はちょっとおかしいから、何も言わないで離れたほうがいいよ」という意見ばかりで、確かに伝えた所で相手がどう受け取るかは別ですし、むしろ攻撃されたと騒ぐ可能性が高いと思っています。
しかし相手は自分が正しく、病気にさせられた被害者だと思っていて、私は恩知らずで完全に非があると思われているのかと思うと、惨めで情けない気分になります。
相手の思考は変えられませんし、これは「状況や相手の思考をコントロールしたい」という私の煩悩だろうと思います。
今後はしっかり自分の意見を伝えよう、相手が思いたいように思わせておけ、等と思うのですが… 時々急にその方からのメールが頭によぎって、嫌な思いに苛まれます。
どんな心構えでいれば心安らかにいられるのか。
ご教示いただけますと幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
思いを手放せばラクになれます…
あなたのご相談内容を拝見して優れた知性をお持ちのお方だと直感しました。
その上で、だからこそ申し上げます。
『相手の思考は変えられませんし、これは「状況や相手の思考をコントロールしたい」という私の煩悩だろうと思います』…わかっていらっしゃるんですよね。その通りだということが…。
優秀で理性的に考えることが出来るあなたは、だからこそ相手の主張のおかしな点や、非礼な部分が気になってしまうのだと思います。
ある意味では相手になんとかして変わって欲しい、もう少し踏み込んで申せば、私は正しいのであるから相手にこそ非を認めさせたい…そういった思いをお持ちなのだと思います。
それは『私は恩知らずで完全に非があると思われているのかと思うと、惨めで情けない気分なります』とおっしゃっていることに明かされています。
でも、相手の思考を変えることは出来ません…その通りです。
だったら「あなたが思考を変えれば良い」のです。
その通りです…でも やはり相手もそうであるように、自分の思考を変えることなんて簡単には出来ません。
ただ それではあなた自身が苦しみから解放されないままになります。
そんなあなたを何とかしたいと、仏様がおはたらき下さっています。
「あなたのその思いを変えなくて良い。でも、それでは苦悩が次々生まれつづけるであろう」…「どうか、あなたのその思いを私(仏)に預けて欲しい、委ねて欲しい」とおっしゃるのです。
「自分は間違っていない」という思いすらも手放しなさいよ…仏様はそこまでおっしゃいます。
なぜなら、我が思いを離れる、また手放せたなら「心が軽くなる」からです。「ラクになれる」からです。
なかなか我が思いを手放すことは簡単には出来ません。でもそれでは苦悩から解放されることはないのです。
だから仏は「思いを手放せ。私に預けよ。あなたの思いを私に委ね、任せよ」とおっしゃり続けます。
それが「南無阿弥陀仏」(私…仏に任せておきなさい)の念仏のはたらきなのです。
なかなか受け止めるのに難しいことかと思います。
ただ、思いを手放せば心がラクになることだけは間違いありません。
相手の心境が変わるまで待つよりも、その為に労力を使うよりも、実現可能でラクなことだけは間違いありません。
仏様の思いをどうぞ そのまま受け止めて下さいませ…。
質問者からのお礼
小林 覚城様
ご回答有難うございます。本当に、自分の気持ちは儘ならないものですね。
文字にすると余計に恥ずかしいのですが「相手が自分をこう思っているのが悔しい」というある種の傲慢さがあるのですよね。
「自分の立場をほとんど伝えられなかった」という後悔もありますから、なおさらです。
酷い事を言われたショックそのものとは切り離して考える必要がありますね。
(刑事罰に当たるような、立ち向かった方がいい酷いものもありますが、ここではそれ以外の事に焦点を当てています)
仏教のみならず、様々な宗教でも言われる”委ねる”とはどういうことか。今までピンと来なかったのですが、小林様のご回答を拝見してふと思ったのが、”殴られた痛みを無くす事が出来ないように、怒りや悲しみなど湧き上がってくるものは抑えようとして抑えられるものではない。どうしようもないそれを神仏に委ねる”という事でした。
他人はコントロール出来ないのと同様、殴られて痛いと感じるのをやめろ、お腹が空いたのに空腹を感じるなというのは無理で、怒りが湧いてくる事そのものは止める事は出来ない。
酷い事を言われればショックですし、事実と異なる事を言われたならば戸惑いや怒り、不安の念が湧いて当然。感謝の気持ちを何度も伝えたのに、恩知らずと言われれば悲しいと思うのも当然。
大切なのは、それらの感情を否定する事なく認め受け入れ、それ以上苦しまないようにする事だと思いました。
どうも、感情を自覚はしていても、どこかで「こんな情けない事ではだめだ」と、きちんと受け入れられていなかったように思います。
相手の方は理想家で、ご自分も含め全てをコントロールしようとしている節があり、そのせいでご自分の感情に振り回されて、終いには私や他者を支配しようとし続けてきました。
「皆はこうあるべきなのに、そうならない!」
もし相手に反応する形で、感情を整理せず、ただ攻撃的に言い返していたなら、相手と同じ事をしていたかもしれません。
こう思うと、不思議な事に「みじめだ」という思いが薄れ「自分を守りきれずこちらの立場を十分伝えられなかったけれど、攻撃に攻撃を返さず、相手を気遣ったのだからよかったじゃないか」と、自分の行動を別の角度から受け入れる考えが自然と湧いてきました。
もう相手は近くにいませんし、過去の自分にとってはそれが限界で、その時やれることは精一杯やったのだと思うとスーッと楽になり、これが手放すという事だろうか、と思いました。
手放すとは「無理に考える事をやめる」という事ではないのですね。
体の不調と同じで、こう思えたからといっても、また何度も思い出し、嫌な気持ちになってしまいます。
ですが、それも人間ならば仕方のない事、そんな自分の思いを仏様に委ねる気持ちでいようと思います。
後悔し続けては、今の自分のエネルギーや時間をいたずらに浪費するだけですので、「これから先似た事があればどうするか」を考えて、もし嫌な言葉を思い出しても「辛かったからしょうがない、でも精一杯やったからこれでいい」と思い出そうと思います。
「今」や「これから」を見つめ、相談に乗ってくれたり、助けてくださる周りの方々に感謝し、日々大切に過ごしていこうと思えました。
重ねて、ご回答有難うございました。