勝手に想像して苦しくなってしまう
こんにちは。よろしくお願いします。
私には悪癖があり、それは「他人の苦しみを勝手に想像して自分で苦しんでしまう」ということです。
感受性が強いと言えば聞こえはいいのですが、やっていることはほぼ自傷と変わらないと思います。SNSで流れてくる特定の人種への差別発言、過剰反応なデマを流す人間の言葉、セクシャルマイノリティ等への暴言など、そういったものに勝手に憤慨してしまうのです。
私が軽度の障がい者(目には見えないものです)なので尚更かもしれません。こういった考え方をやめられたらいいのですが、脳は勝手にその事を考えてしまい、なかなかやめることができません。あまりに疲れてしまい、死にたさでいっぱいになったこともあります。
そして先日、私の上司の差別発言を聞いてしまいました。その上司は私を気にかけ親切にしてくださり、とても尊敬していました。
その尊敬していた相手からごく自然に出た差別発言に私はショックを受けました。私が軽度の障がい者だと知っていて雇用してくださった方なのでなおさらです。
そのことが本当にショックで、つらい気持ちでいっぱいです。私もいつか差別されるのか、あるいはもう既に陰でされているのか、そういった事被害者意識のような事を考えてしまいます。
どうしたらこういった考えを抑えられるでしょうか。ご教授お願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「慈悲の瞑想」
むろ様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
「他人の苦しみを勝手に想像して自分で苦しんでしまう」・・
相手のことを自分のことのように憐れみ、慈しみの心で何とかしてあげたいというお心は、仏教における「慈悲」の想いと非常に近いところがあり、無理に抑えようとされるのでなくて、むしろ、その方の苦しみや迷い、あるいは色々な煩悩、無明(根本的な無知)が無くなりますようにとの「慈悲の瞑想」も並行されてみられるのはどうであろうかと存じております。
そして、「他人の苦しみを勝手に想像して自分で苦しんでしまう」ことにおいて、各々に対して「慈悲の瞑想」をされたならば、それでいったん自分の中での一つの自分で自分を苦しめてしまっている想像、想いの区切り、決着とされてみられることで、少しずつでもその想像の囚われから離れられるようになさられていかれると良いのではないだろうかと存じます。
「慈悲の瞑想」におきましては、日本テーラワーダ仏教協会さんの「慈悲の瞑想」や「慈経」が有名ですので、下記にご紹介させて頂いておきます。
「慈悲の冥想 Mettâ Bhâvanâ」
http://www.j-theravada.net/3-jihi.html
「慈経 Metta Suttam/※注意・パーリ語読み自動再生あり」
http://www.j-theravada.net/sutta/Metta_Suttam.html
一つの参考となされてみて下さいませ。
善処を祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
川口英俊さま
噛みしめるように拝読いたしました。ありがとうございます。
相手に対し祈り念じ、そこで一旦区切りをつける、気持ちの切り替えをする、ということ、とても納得できる方法です。
それを実践して、ちゃんと区切りをつけられるようになるまでには時間がかかりそうですが、もし苦しくなったとき心掛けるようにしていきます。
またリンク先も拝見いたしました。私がそこまで到るのは難しそうですが、いつかひどい言葉を放った相手にも、幸せが訪れますようにと願える心が持てたらいいなと思います。
貴重なお時間を割いて回答を下さりありがとうございました。気持ちが少し楽になりました。