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神を信じられなくなって辛い。

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カトリックですが、神父さんに相談しても解決しないので、こちらにおすがりしています。
数年前、ヒルティと言う偉人の書いた幸福論3部作に心酔しました。良い事も書かれていて非常に感銘を受けました。只、迷信も結構書かれていて、、書物や場合によっては人との出会いは導き、とか。人との出会いは導き、と言う事を信じてしまい、当時出会った人と結婚しましたが、タイプの方では無かったのですぐに苦しくなり、、やむ無く離婚を申し出て相手を非常に傷付けました。私もそんなひどい事を自分がした事に傷付きました。以来6年半経ちますが、神は何故こんな事をしたんだろうと、考えています。答えは勿論ありません。神を信じられなくなってしまいました。辛いです。神父さんとかは、その出会いにも別れにも意味があると言いますが、彼女の嘆きを見た私には、意味があったとは思えません。何でこんなひどい事を神はしたんだろうと悩み苦しんでいます。神は予定はしない、と神父は言うのですが、納得いきません。ヒルティが迷信を書いていたのを信じたのが悪かったと思っていますが、抜け出せません。どうしたらいいのかなぁ、、何卒宜しくお願い申し上げます。

2023年8月26日 17:30

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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「自灯明・法灯明」

peterさん お悩み拝読しました。信じていたものが崩れた時の辛さを感じました。メッセージを寄せてくださってありがとうございます。

私はキリスト教の勉強をしてきていないので、ヒルティの書いた幸福論3部作というものを全く存じ上げていないのですが、お釈迦様の教えでお伝えできることを書いてみたいと思います。
お釈迦様が入滅の際、弟子に伝えた言葉に「自灯明・法灯明」という教えがあります。「誰かの言葉や教えに左右されることなく、これまで積み重ねてきた行いを信じ、自らの心に従い正しい教えを拠りどころとして、この先も精進していきなさい」という教えです。
人間は誰でも過ちを犯すものです。そして誰かを傷つけることもあるでしょう。その一つ一つは大切な経験として同じ過ちをしないよう誠実に生きていく、それが「懺悔」と「誓願」だと思います。別れてしまった彼女を傷つけた、それは事実かもしれません。ですが、あなたがすでに誠実に謝ったならば、彼女は彼女で乗り越える場所であり、今はあなたの人生とは関係ありません。
今、生かされている命に感謝をすること、今、peterさんを支えてくれている全ての存在に感謝をすること、自分一人で生きているわけではなく生かされている自分に気がつけば、神さまや仏さまがあなたに何を伝えているか、自ずと気がついてくると思います。ご一緒に精進してまいりましょう。

2023年8月26日 19:57
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おきもち

曹洞宗(禅宗)僧侶。スピリチュアルケア師。 もの心がついた頃から「生きる...
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交流分析の「ゲーム分析」をご参照くださいませ

はじめまして。
よろしくお願いいたします。
率直に感じたことを書かせて頂きます。

信仰云々よりも、コミュニケーションの初歩的なことに気付いていないと思えてなりません。

神父さんが、ヒルティが、神が…と、延々言われていますね。
hasunohaのお坊さんの答えに対しても
「あー言えば、こー言う」を繰り返しています。
「うん、でも〜。そうなんだけど、なんか違うような…」

これは交流分析のyes、butゲームです。
(他にも色んなゲームがあります)

peterさんは恐らく幼い頃、大人たちからプラスのストロークを十分に貰えなかった。
プラスのストロークというのは心の栄養のようなもので、優しい笑顔で可愛いねとか、よくがんばったねとか、しっかりと認めて貰い、ハグやアイコンタクトなどをされることも含まれます。
そういうものが満たされなかった可能性があります。
マイナスのストロークは無視、暴言などです(勿論、これだけが全ての原因ではありません。そして、ご両親を悪く言っているのでもなくて。遺伝や環境など様々な角度から考えてみましょう)

何れにしましても、交流分析ではpeterさんの幼少期、求めた愛情が返ってこなかったため寂しかった。満たされなかった。当時の大人たちに質問をするように今もしているのかな?と思いました。
以上は推測ですがよくあることです。

改善するには
「私は人に『yes、but…』のゲームをする傾向がある。素直に『はい!』と言えないこともあるようだ」と先ずは気づくことです。
そうしないと、お互いに後味の悪いモヤモヤが残ります。

詳しくは交流分析のゲーム分析を検索して見てくださいね。

これが納得できて、自分を客観視できたら次のステップで神父様も応じてくださり、これからのコミュニケーションが変わって行くのではないでしょうか?

また、いつでもhasunohaにお越しくださいね。
ありがとうございました。

2023年8月26日 19:57
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おきもち

これまでhasunohaでベストな回答ができて満足だと思ったことは一度もあ...
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まっすぐだけでないからこそ生かされている甲斐がある

peterさんのまっすぐな信仰心には、私自身も襟を正された思いです。今は(以前のように)神を信じられず、お辛いと思いますが、そうしてお辛くなることこそが宗教家として“まっすぐ”である証であるように拙僧には思われます。

僭越ながら申し上げますと、そんなpeterさんの信ずべき神が在るとすれば、きっと、「当時出会った人と結婚しましたが、…以来6年半経ちますが、神は何故こんな事をしたんだろうと、考えています」というご経験それ自体が全て丸ごと導きであって、そういうおおきな導き方をする神なのではなかったでしょうか。

人が何かを本当に信じようと思ったら、どうしても一度は疑わなくてはならなくなる、と私は思います。疑うから確かめられるのであり、確かめるからこそ見極められるようにもなり、自ずから「確信」される瞬間もおとずれるのでありましょう。

むかし、私の知り合いのお坊さんで完璧を求める方がいました。その方はお寺の子ではなく脱サラ&出家して仏門に入った方で、知らず知らず理想を抱いていたようです。それで完璧なお坊さん(毒のない、咎のない、傷のない、苦のない、まったく欠点がない人間)を目指して、かえってむしろ自分自身に内在していた毒性、咎性、心の傷、苦(実存苦)をまざまざと見せつけられ叩き付けられ、それこそ神も仏もないじゃないかと絶望して死のうとした。でもどうしても死ねないで、とうとう死ぬこともあきらめてしまって、瞑想しはじめた。ところが、その瞑想もずっと長いことうまく出来ず、暗々たる心境を彷徨って、迷いに迷った。瞑想どころかみっともなく迷走しているだけ、まわりからはそう見えたんだそうです。それでも安易な答えに満足せず、自分の頭で考えることと自分の心で掴むことだけは捨てなかった。結果、いくばくかの気付きを得て、そこからみるみる心の眼がひらいていった。そういう宗教家(お坊さん)も、います。

それでも苦しみは残るでしょう。傷も毒も全ては消えない。一生背負って生きる。そうしようと覚悟するのではなく、そうするしかないと覚悟する。もしも自分のなかから苦しみがまったく無くなってしまったら、自分ばかりは楽でしょうけれども、(いずれ)苦しむ人のことがわからなくなってしまうでしょう。そうなったら拙僧のような者が生かされている甲斐もないなと思い、こうしてこつこつ精進しております。

そわか合掌

2023年8月28日 18:07
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入山文章(Bunshō)
苦しみに負けず、安心して前を向いて力を出して頂けるよう、微力ながら誠心誠意...
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質問者からのお礼

慈正様

優しいご回答ありがとうございます。
自灯明の教え、救いになる感じがしました。ヒルティの少し狂信的な思想に影響を受けて苦しんでいましたが、脱出の糸口を掴んだ気がします。又質問の際には、何卒宜しくお願い申し上げます。

入山様

お世話になっております。
ご丁寧なご回答ありがとうございます。
そういう大きな導きをする神、だとも考えましたが、彼女の嘆きを見た私にはどうしても受け入れられない様です。人の出会いは導き、という根本の所から自分を変える様に努力して行く積りです。ありがとうございました。

薫衣様

ありがとうございました。

「神社・神様」問答一覧

天部の神様と死について

こんにちは。表題の件について質問させて下さい。 忌中には、天部の神様を祀ってあるお寺に参ってはいけないという話を聞きました。 理由は「死は穢れで、特に聖天さんなんかは穢れを嫌うから」「天部の神様は人間に近いから、死を思い出させることで荒れ狂ってしまうから」「本当は神様はそんなこと気にしないんだけど、あなたが悲しいときに無理してお参りしなくていいよ、という意味だ」など、お坊さんによって様々なようです。 私も最近祖母を亡くしました。 祖母とは生前不仲でしたが、遺体を見ていると「生まれて生きて死ぬとは本当に大仕事で、この人はそれをやってのけたんだな。お疲れ様」と素直に見送る気持ちになれました。 死ぬのは怖いけど、それは死に際しての苦痛への恐怖が主であって、死自体はどんな生き物にも訪れるものですし、決して穢れではないと思うのです。 肉体が腐ることだって、微生物に分解され、本来なら動物や植物の糧になり、土に還るという尊い過程です。 何なら生きることより尊いと思うし、衛生管理のため仕方ないとはいえ、死んでまで化石燃料バンバン使って骨にして何の役にも立たない壺に収めて保管して、アホらし、とすら思いました。 そう考えると、「死は穢れだから」とか「天部の神様が死を恐れるから」という理由は、個人的にはあまりしっくり来ません。 人によって死への解釈や意見は違うものでしょうが、実際のところ、天部の神様にとって人間の死とはどういう扱いなのでしょうか? どうして忌中に参ってはいけないのでしょう? 現役のお坊さんの意見をお聞きしたいです。 よろしくお願いいたします。

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神を信じられなくなってしまいました辛い。

カトリックのクリスチャンですが、神父さんに相談しても一向に解決しないので、こちらにお縋りしています。 数年前に偉人のヒルティと言う人の幸福論と言う著作を読んで心酔しました。何度も繰り返し読みました。確かに良い事も書いてあったのですが、書物や人との出会いは導き、と書いてあったりして、当時の私は私の知らない宗教の神秘かと思い、信じてしまいました。当時出会った女性が自分のタイプでは無かったにも関わらず、運命の人だと信じて結婚しました。直ぐに苦しくなって耐えられない位になり、やむ無く別れをお願いして離婚しました。彼女は号泣して私の胸も引き裂かれる様でした。 以来6年余りが経過しますが、未だ神に逆らって離婚したと言う気持ちが無くなりません。どうして神はこんな事をしたのだろうと答えの出ない問いを続けて苦しんでいます。でも神を信じているから、答えが欲しくて。神父さんにも相談してみましたが、キリスト教も誤った解釈があるとかとは、絶対に言われないので、一向に楽になりません。地獄を彷徨っています。神が何故不幸になる様な事に導いたのかなぁ。どうか宜しくお願い申し上げます。死にたい位辛くてなりません。涙

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稲荷信仰の宗教学民俗学的知見を求めてます

 最近、狐に呼ばれているような気がします。稲荷神社に参る必要性を感じているのですが、どこの稲荷神社に行けばよいのかわかりません。  20歳の時に初めて参り強く心惹かれ、なんとなく購入してきた狐のぬいぐるみを会社に居る間ずっとお世話させていただいていた京都の伏見稲荷大社が筆頭ですが、子供の頃に毎日通っていた千駄木の満足稲荷、今は両親の離婚に伴い縁のない実父の家が代々氏子を務める根津の根津神社内の乙女稲荷、生まれた病院の隣の湯島の花姫稲荷にも縁があります。現実問題として現住所が東京であるため、伏見稲荷大社以外でも失礼にあたらないのであれば、そちらに参りたくもあります。  また、昨年は自殺を考えるまで思い詰めたいた時期もあったのですが、その際に縁もゆかりもなかった女性に救われました。その方とは今は連絡が取れないのですが、不思議な人で、どうも今を思うと言動の節々や所作から、狐だったような気がしてなりません。ただ、この方は仏教系の荼枳尼天に近い気もしており、そうなると仏教系の豊川稲荷に行くべきかもしれません。  祀るにあたってリスクがあると言われる稲荷神ではありますが、それだけに失礼のないよう調査しており、また、この機会に一生祀る覚悟もあります。そうでなくとも、召喚には応ずるべきですし、もしも本当に自殺の間際から救ってくださったのがお狐様であるなら、お礼は言うべきだと強く感じています。故に、気軽に選択できずにいろいろ調べている現状です。  神仏には何かを求めるものではなく、あくまで個人の努力を応援してくださる存在として、私個人の思想と行動を中心に考えるべきということも重々承知しており、現実的な偶然を神秘的な問題と混同する危うさも理解しています。しかし、今回は、なんとなく重要な問題のような気がするので、心の問題というよりも、宗教学・民俗学的問題としての情報を求めています。  稲荷神の分霊に関して、総本宮である伏見・豊川の祭神と、それ以外の全国の稲荷神社の祭神は、神道系仏教系の同カテゴリの稲荷であればそれぞれが等しくどこからでもアクセスできるのか、派遣され憑いてくださるという眷属に関してはどのようなシステムで運営されているのか、全国の稲荷神社に参拝して信心を納めても良いものなのか、宗教学・民俗学に詳しい方がおられましたら、回答もしくは書籍の紹介いただけると幸いです。

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神様はどんな人でも赦してくれますか?

私は幼い頃、お店の物や友達の物、学校の備品などを盗んでしまっています。 ですが、それらはすべて見つからず、謝罪もできぬまま終わってしまいました。 そのことをずっと後悔して生きてきました。 赦されたくて、私は今まで自分よりも他人を優先し、他人に優しくするよう心がけて生きてきました。 今も困っている人の役に立てるような仕事に就くために一生懸命勉強しています。 正直おこがましいですが、自分は他人より人に優しく、真面目生きていると胸を張って言えます。 ですが、これもすべて私が私の罪を償うためにしていることであって、私のエゴです。 本当に優しい人にはなれていません。 少なからず見返りを求めてしまっていますし 他人によく思われたい、愛されたいと思ってしまっています。 私の罪滅ぼしのために他人を利用しているように思えてしまって自分が嫌になってしまいました。 私のしたことはいくら子供だったからとはいえ、到底許されることではありません。 今まで盗みを働いてしまった何件かのお店には謝りに行ったりしたのですが、潰れてしまっていたり、遠くにあって行けなかったり、そもそも場所を忘れてしまったりして謝罪できない所もありました。 友達も今どこにいるのか分かりません。 学校にも数年前のことを言っても先生も変わっているだろうし、迷惑になるかもしれないと思い、行けていません。 盗んだものも、もう手元にないんです。 こんな私は赦されないですよね。 すごく身勝手ですが、地獄には行きたくないです。  赦されたいです。 見返りを求めない、本当に優しい人になりたいです。 最近では考えすぎて食事も喉を通らなくなってしまいました。体調も崩しがちです。 何をしても楽しいと思えません。 友達や家族に優しくされるたび申し訳なくなります。 神様から罰を与えられたのでしょうか。 自分が気づけていないだけできっと私は今まで、他にもたくさん罪を犯していると思います。 こんな私は幸せになってはいけないのでしょうか? 助けてください。

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