神を信じられなくなって辛い。
カトリックですが、神父さんに相談しても解決しないので、こちらにおすがりしています。
数年前、ヒルティと言う偉人の書いた幸福論3部作に心酔しました。良い事も書かれていて非常に感銘を受けました。只、迷信も結構書かれていて、、書物や場合によっては人との出会いは導き、とか。人との出会いは導き、と言う事を信じてしまい、当時出会った人と結婚しましたが、タイプの方では無かったのですぐに苦しくなり、、やむ無く離婚を申し出て相手を非常に傷付けました。私もそんなひどい事を自分がした事に傷付きました。以来6年半経ちますが、神は何故こんな事をしたんだろうと、考えています。答えは勿論ありません。神を信じられなくなってしまいました。辛いです。神父さんとかは、その出会いにも別れにも意味があると言いますが、彼女の嘆きを見た私には、意味があったとは思えません。何でこんなひどい事を神はしたんだろうと悩み苦しんでいます。神は予定はしない、と神父は言うのですが、納得いきません。ヒルティが迷信を書いていたのを信じたのが悪かったと思っていますが、抜け出せません。どうしたらいいのかなぁ、、何卒宜しくお願い申し上げます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「自灯明・法灯明」
peterさん お悩み拝読しました。信じていたものが崩れた時の辛さを感じました。メッセージを寄せてくださってありがとうございます。
私はキリスト教の勉強をしてきていないので、ヒルティの書いた幸福論3部作というものを全く存じ上げていないのですが、お釈迦様の教えでお伝えできることを書いてみたいと思います。
お釈迦様が入滅の際、弟子に伝えた言葉に「自灯明・法灯明」という教えがあります。「誰かの言葉や教えに左右されることなく、これまで積み重ねてきた行いを信じ、自らの心に従い正しい教えを拠りどころとして、この先も精進していきなさい」という教えです。
人間は誰でも過ちを犯すものです。そして誰かを傷つけることもあるでしょう。その一つ一つは大切な経験として同じ過ちをしないよう誠実に生きていく、それが「懺悔」と「誓願」だと思います。別れてしまった彼女を傷つけた、それは事実かもしれません。ですが、あなたがすでに誠実に謝ったならば、彼女は彼女で乗り越える場所であり、今はあなたの人生とは関係ありません。
今、生かされている命に感謝をすること、今、peterさんを支えてくれている全ての存在に感謝をすること、自分一人で生きているわけではなく生かされている自分に気がつけば、神さまや仏さまがあなたに何を伝えているか、自ずと気がついてくると思います。ご一緒に精進してまいりましょう。
交流分析の「ゲーム分析」をご参照くださいませ
はじめまして。
よろしくお願いいたします。
率直に感じたことを書かせて頂きます。
信仰云々よりも、コミュニケーションの初歩的なことに気付いていないと思えてなりません。
神父さんが、ヒルティが、神が…と、延々言われていますね。
hasunohaのお坊さんの答えに対しても
「あー言えば、こー言う」を繰り返しています。
「うん、でも〜。そうなんだけど、なんか違うような…」
これは交流分析のyes、butゲームです。
(他にも色んなゲームがあります)
peterさんは恐らく幼い頃、大人たちからプラスのストロークを十分に貰えなかった。
プラスのストロークというのは心の栄養のようなもので、優しい笑顔で可愛いねとか、よくがんばったねとか、しっかりと認めて貰い、ハグやアイコンタクトなどをされることも含まれます。
そういうものが満たされなかった可能性があります。
マイナスのストロークは無視、暴言などです(勿論、これだけが全ての原因ではありません。そして、ご両親を悪く言っているのでもなくて。遺伝や環境など様々な角度から考えてみましょう)
何れにしましても、交流分析ではpeterさんの幼少期、求めた愛情が返ってこなかったため寂しかった。満たされなかった。当時の大人たちに質問をするように今もしているのかな?と思いました。
以上は推測ですがよくあることです。
改善するには
「私は人に『yes、but…』のゲームをする傾向がある。素直に『はい!』と言えないこともあるようだ」と先ずは気づくことです。
そうしないと、お互いに後味の悪いモヤモヤが残ります。
詳しくは交流分析のゲーム分析を検索して見てくださいね。
これが納得できて、自分を客観視できたら次のステップで神父様も応じてくださり、これからのコミュニケーションが変わって行くのではないでしょうか?
また、いつでもhasunohaにお越しくださいね。
ありがとうございました。
まっすぐだけでないからこそ生かされている甲斐がある
peterさんのまっすぐな信仰心には、私自身も襟を正された思いです。今は(以前のように)神を信じられず、お辛いと思いますが、そうしてお辛くなることこそが宗教家として“まっすぐ”である証であるように拙僧には思われます。
僭越ながら申し上げますと、そんなpeterさんの信ずべき神が在るとすれば、きっと、「当時出会った人と結婚しましたが、…以来6年半経ちますが、神は何故こんな事をしたんだろうと、考えています」というご経験それ自体が全て丸ごと導きであって、そういうおおきな導き方をする神なのではなかったでしょうか。
人が何かを本当に信じようと思ったら、どうしても一度は疑わなくてはならなくなる、と私は思います。疑うから確かめられるのであり、確かめるからこそ見極められるようにもなり、自ずから「確信」される瞬間もおとずれるのでありましょう。
むかし、私の知り合いのお坊さんで完璧を求める方がいました。その方はお寺の子ではなく脱サラ&出家して仏門に入った方で、知らず知らず理想を抱いていたようです。それで完璧なお坊さん(毒のない、咎のない、傷のない、苦のない、まったく欠点がない人間)を目指して、かえってむしろ自分自身に内在していた毒性、咎性、心の傷、苦(実存苦)をまざまざと見せつけられ叩き付けられ、それこそ神も仏もないじゃないかと絶望して死のうとした。でもどうしても死ねないで、とうとう死ぬこともあきらめてしまって、瞑想しはじめた。ところが、その瞑想もずっと長いことうまく出来ず、暗々たる心境を彷徨って、迷いに迷った。瞑想どころかみっともなく迷走しているだけ、まわりからはそう見えたんだそうです。それでも安易な答えに満足せず、自分の頭で考えることと自分の心で掴むことだけは捨てなかった。結果、いくばくかの気付きを得て、そこからみるみる心の眼がひらいていった。そういう宗教家(お坊さん)も、います。
それでも苦しみは残るでしょう。傷も毒も全ては消えない。一生背負って生きる。そうしようと覚悟するのではなく、そうするしかないと覚悟する。もしも自分のなかから苦しみがまったく無くなってしまったら、自分ばかりは楽でしょうけれども、(いずれ)苦しむ人のことがわからなくなってしまうでしょう。そうなったら拙僧のような者が生かされている甲斐もないなと思い、こうしてこつこつ精進しております。
そわか合掌
質問者からのお礼
慈正様
優しいご回答ありがとうございます。
自灯明の教え、救いになる感じがしました。ヒルティの少し狂信的な思想に影響を受けて苦しんでいましたが、脱出の糸口を掴んだ気がします。又質問の際には、何卒宜しくお願い申し上げます。
入山様
お世話になっております。
ご丁寧なご回答ありがとうございます。
そういう大きな導きをする神、だとも考えましたが、彼女の嘆きを見た私にはどうしても受け入れられない様です。人の出会いは導き、という根本の所から自分を変える様に努力して行く積りです。ありがとうございました。
薫衣様
ありがとうございました。