今を生きる=悩む暇がないこと?
以前より、死の恐怖についてご相談させていただいております。いつもありがとうございます。
今年から仕事をはじめ、毎日必死に慣れない仕事をこなしています。以前と違って少なくなった休日は、友人との交友や趣味を詰め込んでいます。
そのような生活をしばらく続けていましたら、以前悩んでいた「死の恐怖」について悩む物理的な時間が殆どなくなっている事に気が付きました。
しかし、死の恐怖がなくなった訳ではなく、今でも偶に恐怖で叫び出してしまう事はありますし、将来のこと(今後のキャリアやライフプラン)について考える時にも、「死ぬ時、恐怖に震えながら死ぬのだろう」ととても悲しく、またとても恐ろしくなります。
これは、「今を生きている」のでしょうか?確かに、目の前のことに必死で、死について考える時間がないので精神は健全です。以前より充実していると思います。
ですが、人生の本質のようなものを蔑ろにしている気もします。今の生活はなんとなく、さまざまな問題から逃げている現実逃避のように感じます。人生は死からの逃避、という言葉をどこかでみました。私の人生は今、逃避なのでしょうか。
そこで、「今を生きること」と「現実逃避」の違い、「今を生きること」と「何かに夢中になり、悩む余裕がない」ことの違いが知りたいです。
また私の今の様な生活は、仏教やお坊さんのお考えからはどのように思われますか?
死に怯えるだけだった過去から、今の生活になったことは進歩でしょうか?これは、私の望む「死は悪くない、怖くないと安心して死ぬこと」に近付いていますでしょうか?
お忙しいところ恐れ入りますが、知恵をお貸しいただけますと幸いです。よろしくお願い致します。
死と別れが怖い。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
あなたの人生の中で変わっていくでしょう
拝読させて頂きました。
あなたが生きることについて様々思いめぐらしてとても迷っておられること伝わって参ります。あなたのお気持ち心よりお察しします。
ご質問の
「今を生きている」のでしょうか?
については毎日があわただしい生活の中で一杯いっぱいになっているのでしょう。それも生きることです。目の前のことに精一杯力を注いでいることは生きる基本かと思います。その積み重ねが人生です。
何かに夢中になり悩む余地がない・あわただしさの中で生きること死ぬことを忘れている様に感じるかもしれませんが、それでも生死はいつも私達から離れることはありません。仮に悩まない・忘れていたとしても常に私達に寄り添っているです。ですからふと一息ついて立ち止まった時に自らの生死を見つめることはあるのです。そうして己の人生がどうなのか見直すことができるのです。
「死に怯えるだけだった過去から、今の生活になったことは進歩でしょうか?」
あなたの人生があなたのペースで変わっていっているということかと思います。人ぞれぞれにその時期に生き方や考え方は変わっていくのです。
「私の望む「死は悪くない、怖くないと安心して死ぬこと」に近付いていますでしょうか?」
生活や生き方が変わってきたことで死に対する捉え方が変わっているのかと思います。それはこれからもあなたの人生の中で恐らく試行錯誤を繰り返していくこおtでしょう。
いずれにせよ私達は与えられた命・時間の中で限られた人生を歩んでいくのです。
あなたがこれからの未来をあなたらしく心から豊かに充実した人生を歩んでいかれます様に心から祈っております。そしてあなたを心より応援しています。至心合掌
質問者からのお礼
Kousyo Kuuyo Azuma 様
お礼が遅くなり申し訳ございません。ご回答いただきありがとうございます。
生き方が変わったことで死に対する捉え方が変わった、ただそれだけの事なのですね。夢中になっていても生き死には側にあり、悩み方が変化しても命が有限なことに変わりはない、仰るとおりだと思います。
生き方に正解がないように、死の恐怖の解決方法にも正解は無いのでしょう。
優しいご回答をいただきありがとうございました。今後ともよろしくお願い致します。