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4年半付き合った彼の浮気で別れました

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31歳の女性です。四年半付き合った37歳の彼氏の浮気が発覚し、別れました。
2年ほど12歳年下の女の子と二股をかけていました。
「君は俺みたいなクズと別れて幸せになってほしい」と告げられ、別れました。
浮気相手の女の子とも別れたようです。

共通の知人を辿って女の子と連絡を取りましたが、どうやら彼女は一度私のことに勘づき、彼を問い詰めたそうなのですが、私とは別れたと言って続けていたようです。
私はその話も知らなかったどころか、普通にその後も毎週のように会っていましたし、旅行にも何回も行きましたし、彼の誕生日もクリスマスも一緒に過ごしていたため、疑いを持ちませんでした。

それから二週間、本当に眠れず食べられない日々が続き、友人知人等に支えられなんとかやっと回復はしてきました。
みんなが言っているのは、結婚等してなくて良かったし、このタイミングで発覚したのは本当にラッキーだったと思う(多分騙され続けていたから)ということで、私も同じ考えですし、もちろんよりを戻す気も全くありません。
将来性や経済面でも彼に不安があり、結婚を考えるとなると別れないとな、と思いつつズルズルしていたので、よかったとも思っています。

ただ、どうしても彼に対しての怒りが消えません。
最後に彼から「謝罪の気持ちと同じくらい感謝している。今まで楽しかった」といった連絡が来たことも、あれだけのことをしておいてなぜ自分だけ綺麗に終わらせようとしているのかと、腹が立って仕方がありません。
どうしたら彼への怒りを忘れて前を向けるでしょうか?どうか教えてください。

2024年1月30日 8:37

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

沈黙は問題解決にならず。安易な容赦は悪事の放置・増大になる。

男性は女性に、女性は男性に、それぞれ思い込みをするところがあります。
それは自分のミラー心理なのかもしれません。
あるいは自分のマイストーリーかもしれません。
いずれにせよ詐欺師は詐欺師。
いずれにせよ現実は現実。
思い込みは思い込み。
夢は夢。現実は現実。
詐欺師をいい人と思い込むのは本人の勝手ですが、詐欺師を良い人と思い込み続けることは決して良いこととは言えませんよね。詐欺師なんですから。
よく坊さん業界でも誤解され、世論でも誤解されるところがありますが、
悪事をなす人を何でもかんでも許しちゃったり、ひでーことされてるのにこっちが怒っちゃいけないみたいな超絶むちゃくちゃ理論を振りかざす人って、本人はきれいごと言いますが、その人、何の被害にもあってない人ですよね。
仏教業界でもそういうことがありました。
悪事をなす人がいて、その人たちに対して僧侶の善意をもって対応したら逆に搾り取られたなんてケースが何件もあって、私はそれではいけないことに気づき、狡猾な悪意やいじめ、政治工作、非道、不正に対しては、フルボッコです。
そうでないといじめや性犯罪の場合だったらどうでしょうか?
泣き寝入り。狡猾な性的搾取。結婚なんてとてもできない人格なのに、結婚をにおわせつつ浮気して女性を食い物にしている自己慰め野郎。
悪いことをする人、人を騙す人、人の善意を踏みにじってまで自分の欲望を満たす人は詐欺師ですから、その相手は重罪ですし凶悪犯なのだと思うぐらいでいいのです。
あやうく、あれもこれも今後の人生の年数も夢も平和な家庭も壊されるところだった、早く気づけて良かったと思うべきでしょう。
ああ、世の男性、男というものはこれほどまでにしょうもない性なのだなぁとよーく今回のことで学ぶべきであろうと思います。
さて、本題。どれほどそんなクズ野郎によって世の中の女性たちは悲しい目にあっているでしょうか。あなたが本気になるべきではないでしょうか?
女を怒らせるとどういう目に合うか思い知らせてやるぐらいでいいのですよ。
最後の最後まできれいに嘘ついて終わらせようとしているだけにしか感じません。
騙されて終わりの時代は終わりました。
あなたが納得のいく制裁、解決法はあなたが無理して黙っていることではないと私は個人的に思います。
👹「おんなをおこらせたらこわい」ということを知らしめるべきかと思います。

2024年1月30日 22:56
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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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