人間はどの時点で悪人になるのか?回答受付中
いつもお世話になっております。これは親も生前言っていたことなのですが、人間はどの時点で悪人になってしまうのでしょうか?凶悪な犯罪が多発し、恐ろしい事です。しかも魔がさしたのではなく計画的な犯罪が多い事に震撼します。そんな悪人、犯罪者も子供の頃があり、そんな恐ろしい事は考えなかったはずです。中には子供のころから悪かったという人もいるかもしれませんが。人はどの時点で良心もモラルもかなぐり捨て悪に走るのでしょうか?生前、親が新聞とかを見て言っておりました。私も同感です。回答をお願いいたします
お坊さんからの回答 1件
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無始以来
どうしてそんなことをしてしまうのだろう?どこでおかしくなってしまったのだろう?
そういう疑問を私も持ちますのでお気持ちお察しします。
ですが、特定の一つのタイミングや出来事をもって、その時点で「悪人になった」とは仏教的には言えないと思います。もっと言えば、「悪人」という固定的な性質をもった人間が実体的に存在しているわけではなく、関係性の中で他者から「悪人」とみなされる行為をしてしまったということであり、事情を知らない世間の多数の人から見れば悪人でも、事情を知り得た人からその人を見れば単なる悪人ではなく、むしろ被害者とも言える側面を持ち合わせていることもあるかもしれません。
仏教的に言えば、どんな物事にも原因はあります。とある行為の一つ前には必ず原因がある。遡れば最初のドミノを倒したのは誰か?何か?という話になりますが、それは人知の追いつかない範疇の問題でしょう。「無始以来」という言葉がありますが、始まりもわからないほどの無数の原因と結果の連鎖の中で物事は生じてきます。そのどこかを切り取って断じることはできないでしょう。
ですがこれは運命論ではありません。仏教が説くのは業・縁起の教えです。無数の原因と結果の連鎖の中において次のドミノがどう倒れるかについて、私の身(何を為すか)・口(何を語るか)・意(何を思うか)が影響を及ぼすと考えるのが仏教です。
私を超えた原因と結果の連鎖という事実の中にも、主体的に私の責任も見出す。それが仏教です。
ですからどこに主な原因があったのか?と考えることの重要性は認めつつ、社会としてどのような外的要因を整えていけば、それが個人に良き影響を与えるだろうかという視点も持っていきたいですね。
質問者からのお礼
ご回答、誠にありがとうございます。私の考えはその人の本質が年を重ねると表になり悪事をするのではないかと思います。生まれや環境が良くなくてもちゃんと生きている人もいるからです。仏教的には何か因果があり、そうなったという事なのでしょうか?これはハッキリと結論が出ない問題でありますがご回答いただいたお陰で少しスッキリしました。ありがとうございました。