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中学高校時代がフラッシュバックします回答受付中

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有り難し有り難し 13

中学高校から男子差別されてきて私が廊下を通ると怖い目で集団で睨まれます。大人になって新たなコミュニティに入ってから
パートナーはできませんが何とか男性とは普通に話せるようになり男性嫌いは克服しましたが中学高校の時のように集団で睨んできてこいつなんでここにいるんだろう?って顔で睨んできます。私の何が悪いのか理解できません。

2025年5月31日 12:20

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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

あなたはあなたのままで、大丈夫です

その記憶が今も「フラッシュバック」するほど強く、しかも現在の人間関係にも影を落としているのですね。「自分の何が悪いのかわからない」という言葉には、深い苦しみと、理解されない孤独がに滲んでいます。

ブッダの言葉
法句経には、こんな言葉があります。

「世の中には非難される人もいれば、称賛される人もいる。いつでも、どこでも、誰からも非難されず、誰からも称賛される人はいない。」(第227偈)

つまり、「非難される理由がないのに、非難されることがある」のが、この世の常なのです。
あなたが悪いのではありません。
集団心理、不安、嫉妬、同調圧力…その「睨み」は、あなた自身の価値とは無関係なところから出ているものかもしれません。

現代的に言い換えれば
・他人の視線や態度=あなたの価値ではない
・あなたが感じた怖さや違和感は、あなたの繊細さや誠実さの証
・「なぜ私が?」と思った時は、「私は私でいい」と立ち返ることが大切です

五月さんは、過去に痛みを受けても、それに飲まれず、生きてきました。
男性嫌いを克服されたことも、とても大きな一歩です。
今あなたが感じている「違和感」や「恐れ」は、過去の痛みの名残かもしれませんが、それは乗り越えていけるものです。

あなたは、ここにいていい。
あなたがどんな表情をされようと、その存在が否定されることは決してありません。

曹洞宗では、坐禅は「坐ること」そのものよりも、自分の心の状態を見つめ直す時間として大切にします。

「睨まれている」と感じた時こそ、少し立ち止まり、深呼吸して、自分の内側に意識を向けてみてください。

過去の記憶と今の現実を切り分けるきっかけとなり、心が少しずつ整っていきます。

あなたはあなたのままで、大丈夫です。
心を見つめる時間が、きっと力になります。

2025年5月31日 13:56
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有り難し
おきもち

思い込みとは無限の角度の中の一側面のまなざし

サッカーボールやミラーボールはある種、多面体です。いろんな角度があるのです。
あなたが男性たちから変な態度をされたことだって、男性、オスからすれば、ちょっかいを出していたのかもしれませんし、あなたの反応を楽しんでいたのかもしれませんし、全く行為も関心も無い人には男性たちも何もしませんから、メンドクサイ男性心理であなたの純な反応を楽しんでいただけなのかもしれません。
とにかく何事も学びとなすことです。
何事も悪い側面だけは見つめ過ぎないようにすること。
なにごともあなたを傷つけるような受け止め方をしようとしないことですよ。
人は誰でも怒られたくない、傷つきたくない、否定されたくない生き物ですから、そういうことに自分を結びつけないようにいたしましょう。

過去のフラッシュバックやトラウマについて。
フラッシュバックもトラウマも毎回新鮮なのです。
フレッシュなフラッシュバックなのだと知ってください。
毎回思い返すあのシーンであろうとも、それも今日新たに、今日はじめて思い起こしたことだと気づきましょう。
だからこそ、アプローチも新しくする。
今申し上げましたように、何事も悪い側面ばかりを見ようとはせず、学びとすればよいのです。
自分の中にメッチャポジティブキャラクターをインストールしてください。
そうすれば、過去のトラウマも
(*'▽')あー、今考えるとアタシって当時から男子たちの気を惹いちゃうカワイイ存在だったのかぁ。そりゃぁ、女子たちも私が妬ましいわよねぇ。かわいくてゴメンね~💗可愛いだけじゃなくてごめんね~💗あの時、キュートな笑顔で振り向いてあげられなくてごめんね💗ぐらいに思えばいいのです。
次回そのトラウマ🐯🐴ちゃんが出てきたら、そういうアプローチで新しいかかわりをすればいいのです。
フラッシュバックとはある種、自分の中の消化不良な案件を「👻ご主人様ァどうか、あのことをご自身で上手にかみ砕いてポジティブに解釈してくんなまし」と脳内から依頼されている案件でもあるのです。
人生はどのようなことも学びとして善導することです。
お赤飯はなぜめでたいか。
お飾りの南天の実も「難事を転ずる」胃が込められております。
悪いこともと思い込んでいる一側面的なまなざしも、別角度から眺めてナンテン、好転、善転することで救いの作用となりましょう。
新しいアプローチを🍒

2025年6月1日 2:18
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

長きに渡りこのような状況に縛られていたので少しずつ向き合ってみたいと思います。ありがとうございました。

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