選択の仕方回答受付中
私は以前から、何かを始めたり、時間を使ったりするときに、
「これは自分にとって価値があるのか」
「将来に役立つのか」
「周りから見てどう評価されるのか」
「これを選ぶことで、自分自身の価値はどう見られるのか」
といったことを強く考えてしまいます。
もちろん、将来のことを考えたり、自分の行動を客観的に見ること自体は必要だと思います。
しかし最近、自分は「本当にやりたいか」よりも、「その選択をした自分がどう評価されるか」を基準にしているのではないかと思うようになりました。
例えば、私はロードバイクがとても好きです。本気で競技にも挑戦してみたいと思っています。
一方で、
「その時間があるなら将来のために別のことをするべきではないか」
「ロードバイクに時間を使って、何も得られなかったらどうするのか」
と考えてしまいます。
また、小説を読むときですら、「これは自分にとって価値があるのか」「こんな小説を読んでいる自分に酔っているだけではないか」と考えることがあります。
このような考え方になった背景には、父親が関係しているのかもしれません。
私は中学生の頃から、「考えが甘い」「何も考えていない」と言われることがありました。
そのため、自分が何かを選択するときに、
「この選択は甘いのではないか」
「自分はちゃんと将来のことを考えられているのか」
「もし失敗したら、父親の言っていたことが正しかったと証明されてしまうのではないか」
と無意識に考えている気がします。
最近、自分の問題は「正解を選べないこと」ではなく、
「正解を選ばなければ、自分の判断や価値そのものが否定されるような気がしていること」
なのではないかと思うようになりました。
しかし、人生には選択した瞬間に正解か不正解か決まるものばかりではないと思います。
ロードバイクを始めることも、留学することも、何かに時間を使うことも、選択した後の行動次第で、その経験の価値は変わるのかもしれません。
だから最近は、
「絶対的な正解を選ぼうとする」のではなく、
「自分で選択し、その後できる
限り良い結果にする努力をする。もし違うと思ったら修正する」
という考え方のほうがいいのではないかと思っています。
ただ、自分の中にまだ確信はありません。
皆さんの考え方や経験を聞いてみたいです。
お坊さんからの回答 1件
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よくぞお気づきになりましたね。
質問文、拝読いたしました。
都度判断→努力→見返して評価 はとても良いサイクルだと思います。私たちは確かに、判断した瞬間には、その方が見えないものです。根本的には未来は未定だからです。例えば国債を買って将来の配当が約束されても、国が転覆したらそれもおぼつかない。
だからきっと大切なのは「どこまで努力するか?どこで見限ったり努力を続けるか?」という都度の判断だと思います。お父さんの時代…私も昭和の人間ですが、「自分がここまで注ぎ込んだのだから」を見限る勇気は持たないといけない、と考えています。始めるよりやめる方が難しいかも知れません。
ただ、ニンゲンありがたいことに、そのような思いで判断を繰り返していると、だんだん「見る目が育ってくる」ものです。それはどこかにマニュアルがあることではなく、自分の個性や価値観を育てていくことだからです。
いずれ社会の一員として、「失敗できない」時もあるかも知れません。その時のために、自分の判断軸を磨く。まさにあなたの年代です取り組むべき課題に、取り組んでいる姿だと思っています。


