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再婚

回答数回答 1
有り難し有り難し 17

宜しくお願いします。
私は35歳で16歳13歳の子供がいます。ずっと子育てだけを頑張ってきました。
昨年末に赤ちゃんが生まれました。
その父親と今一緒に住んでいます。籍は入れていません。父親も離婚したばかりで子供が2人います。
私の子供達にも良くしてくれているし赤ちゃんの面倒もよくみてくれています。私にも優しい。辛くならないか心配だし、いつも感謝しかありません。
赤ちゃんは、生まれて5カ月になりました。
そろそろ赤ちゃんも保育園手続きしはじめようと考えてます。そのタイミングで今後どうするのか話合いをした結果「前妻との子供にあえなくなるのが嫌だから再婚の話はしたくない」とのこと。
では、前向きに、いったん白紙にし私達も一緒にいるべきではない。話をしましたが
私と一緒にいないのも嫌だと分かってくれません。子供が大切なのは、当たり前です。
あたしも前妻との子供とも仲良くしたいし父親の気持ちもわかります。
でも、覚悟の無さにがっかりしているところですし、一緒に答え探しすれべきか?とも考えてます。

私一人でやってく自信も覚悟ももちろん最初からあります。
私だって大切な人は、父親だけじゃなく子供達もです。
気持ち切り替えて一人で前向きに頑張っていったほうがいいのか
こんな風に思う自分の心が狭いのか。
何が最善なのか、わからなくなりました。

正直、待ち疲れた気持ちもあります。
それでも、心から父親に感謝しています。
だから、尚更どうしたら良いかわからない。

最後に赤ちゃんの認知も「したいけど、できない」と言われました。
とにかくバレたくないようです。
ってことは、話するしないの前に一緒になるきは、ないってことですよね?

会わないでほしいわけじゃない。
前妻に、再婚する話をしてくれなければ再婚は、できない。
そぅ思うことは、おかしいですか?

なにをしてほしいと言うより覚悟がほしいだけなんです。

このままズルズル一緒にいることも辛いし
なのに、感謝する気持ちも止まらない。
怒りもわいてこない。

父親と一緒にいるべきか
切り替えて一人頑張っていくか
ヒントを頂きたいです。

宜しくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

都合のいい女にならず 責任は取らせる

認知するしないではなく、責任があるのです。
あなたはもっと自分の子どものためにもガツガツいかんとダメです。
そうでないとその男の慰み者で一生終わります。
前妻以外のオンナと関係を持つという事は誰であっても、責任重大だってことをその男に分からせないと、ズルズルでっせ。子どものために、子供のために。
相手の親と話し合いもするべきです。
本性が見えてきたら慰謝料請求などキッチリするべきです。
一番確かなことは、その人との子供ができた事。
もうその赤ちゃんの父親はその男しかいません。
その自覚が彼に足りなさすぎます。
元妻にバレるのが嫌だとか、そういう気持ちではその子を幸せにはできません。
堂々とその子を明るみに出して、広く知らしめて、その子の人生を他の子と比べても不足も負い目も無いようにしてあげられるのはあなたしかいません。都合のいい女にだけはならんでください。
外堀から陥落させる方法もありますから、相手が聞く耳を持たなければ女の本気を見せてやることです。舐められちゃおしまいです。もう一度申し上げます。
その子が、堂々と生きていけるように道を切り開けるのは今、あなたしかいません。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご丁寧にありがとうございます。
この四年で初めて泣いちゃいました。

あたしは、何を話してきたんでしょう。
間違いだったと、わかりました。

なぜ、皆を考えていたんでしょう。

子供たちには、私しかいません。
私は、子供たちのことだけを考えてれば良かったんですね。。。
今『ごめんなさい。昨日あたしが話していたことは間違い。責任とれなければ別れてください。それだけです』と、連絡しました。

私は、子育てと仕事をがむしゃらにしてきました。頼る親もいなかったし、気をはって強く生きてきたはずなのに。
そんな自分忘れてました。

赤ちゃん、かわいーです。
それが、全てです!ね。

ありがとうございました。

ご丁寧にありがとうございます。
この四年で初めて泣いちゃいました。

あたしは、何を話してきたんでしょう。
間違いだったと、わかりました。

なぜ、皆を考えていたんでしょう。

子供たちには、私しかいません。
私は、子供たちのことだけを考えてれば良かったんですね。。。
今『ごめんなさい。昨日あたしが話していたことは間違い。責任とれなければ別れてください。それだけです』と、連絡しました。

私は、子育てと仕事をがむしゃらにしてきました。頼る親もいなかったし、気をはって強く生きてきたはずなのに。
そんな自分忘れてました。

赤ちゃん、かわいーです。
それが、全てです!ね。

ありがとうございました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ