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前向きになれる方法を教えてください

回答数回答 1
有り難し有り難し 64

私はもう40過ぎですが、いまだに結婚もできず…好きな人ができても、なかなか続かずうまくいきません。
休日に友人と出かけたり、料理教室に行ってみたり、なるべく色んな楽しい事を見つけて、マイナスに考えないようにはしていますが、楽しいのはその時だけで…一人になると『このままで良いのか?孤独死は怖い』という妄想ばかりしてしまいます。

今現在、両親と一緒に暮らしていますが、両親が健康で傍にいてくれる有り難さを実感しつつも、やはり恋愛でうまくいかないことで『どうせこんな私なんか』と気持ちが滅入るばかりです。恋愛や結婚が全てではありませんが、仲の良いカップルや家族連れを見ると羨ましさと同時に、自分の今の状況に情けなさと切なさを感じてしまいます。
何をやっても後ろ向きに考えてしまいます…。
いつになったら人に必要とされるのか、本当に不安です。

もっと前向きに考えられる自分になるには、どうしたらよいでしょうか?


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

絶対的な自分を自覚。相対価値を越え大いに遊べるように。

私どもが野菜であるとします。
私がかぼちゃであなたがいちごで友人たちがナスやニンジンピーマンであるとします。
あなたはいちごを生きるよりほかはないのです。
ですが、いちごはいちごでも甘くないと人気は出ません。
ですが、スーパで並んでいて早く結婚されるいちごであっても、農薬漬け、人工甘味料では相手に害を与えます。人間は育てた野菜と違い自分で自分を美味しく人間性を育てる他ありません。
どんなに美人さんでもイケメンさんでも怒ったり、不満が多かったり、不機嫌、ネガティブになれば感じが悪いものです。子育てにも向きません。いい夫婦にもなれません。
むかしむかしサイタマ県の狭山市の安穏寺に「かわいそうな僧」といわれた僧侶が居ました。
晴れればアツいといい、曇れば心がくもり、雨だと陰鬱になるのでした。
顔も体型も恵まれず可哀想なもので鏡をみれば鏡が涙で濡れるのでした。
ある時、その僧侶はセブンイレブンでバイトしている時に張り紙をみて小さな悟りを開きました。
「セブンイレブンの制服はペットボトルで作られています」とな!
なんと!カラになったペットボトルであっても役に立つとな?
つまり、ゴミだと思っていたのはボクチンの思い込みであったでおじゃるか!
それ以来、その可哀想な僧は、晴れの時は洗濯物が干せる、汗かいて痩せられる、曇りなら涼しい、過ごしやすい、雨ならば庭の草木に水をやらんですむと世界がひっくり返り、鏡をみればウットリなのでした。
彼氏、夫が居なければ居なければで金もかからん、夫婦ゲンカもない、仕事も独新女優さんのようにのびのびできるものです。
結婚すればすればで必ず問題が生じるものです。
たった今そこに無いものを嘆くよりは、たった今そこにある状況を感謝できるようになりましょう。
発想転換をしたければ元プラス思考講座の講師が住職の安穏寺坐禅会まで♡

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがたいお言葉を何度も何度も読み返し、心が凄く軽くなりました。
『今そこにある状況を感謝できるようになる』
とっても大切な事なのに、先の不安ばかり考え、ネガティブな発想ばかりでした。
今の悩みもそうですが、自分の事を考え、自分にお金をかける事ができ、自分の自由な時間がある…それはとてもありがたい事なんだと実感しました。
《今》を大切に、ポジティブでいられるように、プラス思考講座に是非参加させて頂きたいと思います。
よろしくお願い致します。

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