順観と逆観について調べていると、逆観について二種類の解釈の仕方が有って非常に混乱します。 一つは、「無明が滅すれば、行が滅する...生が滅すれば、老死が滅する」という上から下へ降る否定の形式です。 もう一つが「老死が滅すれば、生が滅する...行が滅すれば、無明が滅する」といった逆に下から上に昇る否定の形式です。 これらの解釈は宗派によって分かれているものなのでしょうか? また、二つの言い回しの違いは、それぞれどのような意味が有るのでしょうか? 何卒お坊さま方の智慧をお借りしたく存じ上げます。
日頃、宗教や哲学について、ネットあさりしています。 最近は仏教、特に原始仏教と呼ばれるものに興味を持っていますが、十二因縁(縁起)について、府に落ちたイメージを持つことができません。 そこで、難しい言葉や理論を使わず、現代でもわかりやすい具体的な例えを挙げていただきたいと思い、こちらに質問してみました。 なお、こういった知識(智恵でしょうか?)は、一言では語り難いものでしょうし、また言葉だけでわかったつもりになってはいけないとも思っています。でも、こうもイメージが湧かないと、日頃に意識することも難しい。 ぜひ、「なるほど💡 そんな感じなのね!」と感触を得られ、日常の中でさらに感触を深めていけるような例えを、いただきたいと思っています。 ちなみに、これまで私が掴んだ感触・知識は次の通りです。間違いや不足もあると思いますが、その部分こそ、例えで払拭したり補足したりしていただきたいです。 十二因縁(縁起)とは、 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個 「無明によって行が生じる」のように、前の物が次の因になる。 最後の「生、老死」については、「生まれることで、老いがあり死がある」ということ? では、「無明→行」「行→識」「識→名色」「名色→六処」「六処→触」「触→受」「受→愛」「愛→取」「取→有」「有→生」「老死→無明」はそれぞれ、どのような因果なのか。 現代でもわかりやすい例をあげるとすれば、どういう例が考えられるか。 仏教に疎い者でもわかりやすい例を、ぜひよろしくお願いしますm(_ _)m
いつもお世話になっております。 ビルクリーニング技能士と並行し、気分転換がてらダンマパダ を勉強しています。その中に、 「もし旅に出て、自分より尊い、または等しき人に出会うことが できなければ、むしろきっぱりと一人で行け。愚かな人を道連れ にしてはならぬ。」という文言がありました。 この他にも、「愚か」という言葉がたくさん出て来て、 お釈迦さまでもこんなこと言うんだ…wという感じです。 死んだジジィも、「バカはほっとけ!」(狙ってないわよ?) と言ってました。 調べてみましたが、このような解釈で間違いないでしょうか。 愚か=愚痴=無明。 愚痴、無明とは「縁起や道理をわきまえずに自己中心的な 理論や考え方で、同じくそのように振舞う様」とのこと。 例として、いきなり道端の人を挑発したりdisる奴と、 それにガチでキレる私。 反対に、縁起や道理をわきまえるというのは、 「原因と過程を察して冷静に対処する」ということでしょうか。 例えばあのお嬢様が睨んで来たら、「あぁこの人もなにか事情が あるんだな」と思ってほっといてあげる。 既に存在するルールに照らし合わせて合理的に判断し、 適宜そこから離れるか、管理者や知識ある方の指示を仰ぐ。 例としてお説教会のセクハラwww お釈迦様が悟ったのは人間界を効率よく生き抜くための法則 だと聞きました。これらの見解で問題ないでしょうか。 ご意見お待ちしております。
どちらも相依相関を示す縁起の筈ですが、私には両者を区別する根拠が理解出来ません。 空間的な因果関係を示すのが空間的縁起であり、論理的な相依相関の関係を示すのが論理的縁起ということでしょうか? また、龍樹の論理的縁起と華厳の法界縁起の最たる違いは何なのでしょうか?
少し前に質問させて頂いた者なのですが、その時にあるお坊様の方から「見方次第ですが、縁起には重大な欠点があります」との御回答を頂いたのですが、 果たして縁起の欠点とはどういうものなのでしょうか? 自分でも明確な答えを出せないままなのですが、強いて言うならば 私のような凡夫がお釈迦様の教えである縁起を間違って解釈してしまうことで、 本来執着を捨てる為の教えである縁起が、更に強い執着を生み出してしまうからだ、と解しました。 どうか皆様のご意見をお聞かせ頂けませんでしょうか?
私は仏教哲学を勉強し始めたばかりの凡夫でありますが、仏教の縁起説に関して一つ疑問に思うところが有ります。 もちろん、縁起説の欠点だとかそういう物ではありません。 仏教には時間的生起を認める「此縁性縁起」と、時間や空間を論理的に関係づける「相依性縁起」の二つが代表的だと聞きます。 主に前者は釈尊の説かれた縁起とされ、後者は龍樹大師の説かれた縁起とされていますが、これらは学者によって意見が真っ二つであることを、最近本で知りました。 例を挙げるならば松本史朗博士が「龍樹は此縁性縁起を説いた」といった感じですね。 1.果たして今現在の仏教界(?)のこれらに対する見解の主流はどうなっているのでしょうか? 2.また、以下の二つのリンクに対するご感想を伺っても宜しいでしょうか? ネットの意見を鵜呑みにするのもどうかとは思いますが、個人的にはこの方の縁起説は大変興味深いものだと思われます。 http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku02.html http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku03.html
上山春平・梶山雄一編 「仏教の思想 その原型をさぐる」 より 縁起ということは相依性(idappaccayata)ということで、相依性とは「これがあるとき、かれがある。これが生ずるとき、かれが生ずる。これがないとき、かれがなく、これが滅びるから、かれが滅びる」ということであると説かれている。後の中観学派では、この相依性は交互因果・交互媒介の意味でAとBとが、AがあるときBがあり。BがあるときAがあるという、A⇔Bの関係を成立させることであるという。『中論』の立場は空すなわち無自性(自己原因としての実体概念の否定)ということを、一切の存在(法)の交互媒介性によって考えようとするのである。 原始仏教の縁起説で縁起支の相互の関係が一方的な基礎づけの系列であるか、あるいは交互媒介的であるかは、わが国の学者の間でも議論のあったところで、一方的基礎づけと考えるのは和辻哲郎説であり、交互媒介説は宇井伯寿説が代表的である。和辻説によると、縁起支の関係がもし全く相互的であるとすれば、根拠付けの系列に縁起支の全体を秩序付けることも、本来不可能なことになる。これに対して宇井説は、原始仏教の縁起では、それぞれの縁起死が自己の中に全系列を映じ、いわば世界とモナドのような互いに映じ合う関係にあるとする。その結果縁起支AとBとの間に予定調和に基づく相互融入の関係が成立する。要するに相即相入という華厳哲学の交互媒介を───一即一切の世界観を前提としながら───原始仏教の縁起説の相依性を及ぼそうとするのが宇井説の特色である。 宇井伯寿や和辻哲郎は共に十二支縁起を「相依性」と解釈していた筈ですが、これによると両者の縁起観に若干の違いが有ると見受けられます。 和辻の主張する「一方的基礎づけ」と宇井伯寿の主張する「交互媒介」にはどのような違いが有るのでしょうか? 両博士は縁起の「相依性」を主張していた筈ですが、私にはこれらの差異が何を意味しているのかさっぱりです。
縁起にも様々な種類が有りますが、釈迦や龍樹が説かれた縁起の違いとは何でしょうか? また、縁起=空=無自性は恒常不変である万物を想定しませんが、縁起の働きそのものは永遠ですか? それとも縁起自体もやがて死滅する物でしょうか? もし縁起が死滅するとして、その後に訪れるのは一体何だと思われますか?
あらゆる物は縁によって生起させられる故に「無自性」・「空」であり、 その縁起すらも恒久的に存在するのではなく「不生」「無自性」であると喝破し、 最終的には「空」の否定により戯論が寂静した境地こそが、涅槃・勝義諦であると云う事でしょうか? ところで龍樹は「釈尊は不生不滅にして戯論寂静なる縁起をお説きになった。」と仰られておりますが、 「戯論寂静なる勝義こそが縁起」と云う事はあまり耳にしません。 これらの事について解説して頂いても宜しいでしょうか?
仏教の縁起について教えて下さい。