縁起について
縁起にも様々な種類が有りますが、釈迦や龍樹が説かれた縁起の違いとは何でしょうか?
また、縁起=空=無自性は恒常不変である万物を想定しませんが、縁起の働きそのものは永遠ですか?
それとも縁起自体もやがて死滅する物でしょうか?
もし縁起が死滅するとして、その後に訪れるのは一体何だと思われますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
激 起こ ぷんぷん丸
演技…、じゃなかった縁起とは、平たく申せば「縁りて起こる」ということ。
すべての物事の起こりは「縁起(よりて おこ) 」っていないものはありません。
「縁りて 起こった 生じている」 という 法 のありようを側面から理屈で眺めたまでのことです。
人間の介在抜きに、この世にもとより働いている法則であって、理で説明をしようとしたときにだけ「縁りて起こる」という理が脳内に生ずるのみ。いつまでも握っておくべくことでもありません。
時計を見た時、時間が分かればずっと観ている必要はないでしょう。
実質の縁起はあなたが頭の中でチェイスしている理屈縁起とは別に「縁りて起こり」つつ、人間の認識、判断、分別を超えたありようとしてのリアル縁起作用として働いています。
今もあなたの頭脳のなかでも、この文字が映り、よりて❝起こ❞っているでしょう。
そっちにこそ用がある。
常に人間は、思いや感受が激起こりぷんぷん丸で常にローリング状態なのです。
認識ではその縁起の事の起こりの全てを把握できない。
する必要すらない。
だから縁起とは物事の「起こり」「生じ」として無機質に理解するのではなく、あなた自身の「感受 感覚 思い」の起こりとして認得すべきものです。
「縁起」の法則それ自体に用がある訳ではないのです。
自分の身近な怒りや問題、苦しみとして縁起をごらん下さい。
それらは何に❝縁りて起こり❞ましたか?
仏教は哲学化させるものではない。それではすくいとして機能しない。
物事の起こりが知りたければ化学を学べばいいこと。
生きた救いとしての縁起を知りたければ、この自身に物事が「起こる」ところを起こる前から子細に見てください。
それに縁りて❝生起❞している。
認識判別に置き換えた時だけ「それが」物事・感覚・思いとして生まれたと認知されるというまでのこと。
縁起が死滅するという事があるのは、あなたが理屈を離れて生きた縁起にライドオンすることです。
たとえばダンスの本を買って理を追って踊れないダンサーと、理抜きに踊るダンサーとの違い。
あなたが生まれた時から常に流れているBGM。
その曲のタイトルが縁起というだけで、もうその曲が流れて始まっているのに、あなたは何故耳を傾けず評論家になってライドオンしないのか。👤♪
「縁起」について
akbcde様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
釈尊のお説きになられた「縁起」は、「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」という「此縁性の縁起」として、主に「四聖諦」や「十二支縁起」の理解のためにお説きになられたものではないかと存じます。
龍樹大師がお説きになられた「縁起」は、「相依性の縁起」とよく言われますが、その目的は、徹底した「実体の否定」として、私たちの顛倒したモノの捉え方、誤謬の対治に向けて主眼が置かれているのではないかと考えることができます。
「縁起」は、あくまでもモノ・コトのありようのことを示唆するための表現であって、「縁起」そのものにも何か「実体・自性・自相」があるわけではありません。「縁起」が、「永遠であるのか、永遠でないのか」とか、「縁起」が、「生じるとか、滅するとか」というのは、議論にそぐわないものになるのではないかと存じております。
もちろん、この宇宙に一応、モノ・コトがある限り、それは「縁起」によって成り立っているということにはなります。そして、また、「縁起」によりて、何らかモノ・コトが成り立っていくことにはなるのでしょう。
では、いずれこの世界、宇宙も完全なる「絶無」となるのかどうかということは、正直、「無記」と言わざるを得ないのではないかと存じますし、あまりそのことを議論するに益はないのではないかと存じております。
仏法において「縁起」や「空」の説かれる主目的は、あくまでも、迷い苦しみ、煩悩・無明の排撃のためとなります。
しっかりと迷い苦しみ、煩悩・無明の排撃と正しい悟りへと向けて、「空と縁起」を理解して参りたいものでございます。
川口英俊 合掌
質問者からのお礼
皆様 回答有難う御座いました。