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十二因縁(縁起)を例えると…

日頃、宗教や哲学について、ネットあさりしています。

最近は仏教、特に原始仏教と呼ばれるものに興味を持っていますが、十二因縁(縁起)について、府に落ちたイメージを持つことができません。

そこで、難しい言葉や理論を使わず、現代でもわかりやすい具体的な例えを挙げていただきたいと思い、こちらに質問してみました。

なお、こういった知識(智恵でしょうか?)は、一言では語り難いものでしょうし、また言葉だけでわかったつもりになってはいけないとも思っています。でも、こうもイメージが湧かないと、日頃に意識することも難しい。

ぜひ、「なるほど💡 そんな感じなのね!」と感触を得られ、日常の中でさらに感触を深めていけるような例えを、いただきたいと思っています。

ちなみに、これまで私が掴んだ感触・知識は次の通りです。間違いや不足もあると思いますが、その部分こそ、例えで払拭したり補足したりしていただきたいです。

十二因縁(縁起)とは、
無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個
「無明によって行が生じる」のように、前の物が次の因になる。

最後の「生、老死」については、「生まれることで、老いがあり死がある」ということ?
では、「無明→行」「行→識」「識→名色」「名色→六処」「六処→触」「触→受」「受→愛」「愛→取」「取→有」「有→生」「老死→無明」はそれぞれ、どのような因果なのか。
現代でもわかりやすい例をあげるとすれば、どういう例が考えられるか。

仏教に疎い者でもわかりやすい例を、ぜひよろしくお願いしますm(_ _)m

仏教
有り難し 52
回答 5

質問投稿日: 2018年4月6日 21:22

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。

輪廻もたらす十二縁起

 質問を拝見致しました.私の理解の範囲ではありますが,できるだけ分かりやすく説明できたらと思います.
 さて,ご質問にもありましたように,仏教には古くから十二縁起という思想があります.十二縁起とは,輪廻の生もたらす因果的関係のことを言います.我々は皆,生まれては死に,生まれては死にを繰り返すと考えられています.その輪廻を繰り返す理由がこの十二支の縁起によって表されているのです.
 今一度,その十二の要素を現代的な言葉とともに確認してみます.

1.無明(根源的無知)
2.行(行為)
3.識(意識)
4.名色(名称と形態)
5.六処(六つの知覚能力)
6.触(接触)
7.受(感覚)
8.愛(欲望)
9.取(執着)
10.有(生存)
11.生(誕生)
12.老死(老いと死)

 これが輪廻をもたらす十二の要素です.
 この十二縁起には様々な解釈がありますが,ここではインドの偉大な僧である龍樹にしたがって,1から10へと説明していきたいと思います.

 まず,「根源的な無知」を持つ者は,その無知ゆえに様々な「行為」をなし,その行為の力(習気)が「意識」の上に残り,その習気を運ぶ意識が来世の生をもたらします.行為の力は次の効果を発揮するまで意識の上に蓄えられます.そして,胎内に「意識」が入ると体を構成する物質的・心的存在である「名称と形態」が形成されます.そして「名称と形態」が形成されると「知覚能力」が生じ,それに依存して「接触」が生じます.例えば,眼が対象を見るというのが接触に当たります.そして「接触」からは「感覚」が生じ,「欲望」が生じます.欲望が生じるのは感覚を得たいと思うからです.さらに「欲望」を持つと,それに「執着」します.例えば,快楽を得たいという欲望が起こり,なんとしてでも得たいと思う執着心が生まれるようなものです.そして,先の蓄えられていた行為の力が「欲望」と「執着」から養分を得て,誕生の一歩手前の原因としての「生存」となるのです.そしてそれが外の世界へと誕生し,老いてゆき,死へと向かうのです.そして,その死へと向かう間にも,根源的無知に突き動かされて行為をなし,意識の上に行為の力を積んでいているのです.それゆえ,死んだ後にもその意識が次の生をもたらし,輪廻を巡るのです.
 仏教では,輪廻の根本にある無明を断じることで,この輪廻からの解脱を目指すのです.

19日前
回答僧

大慈

hasunoha

自分というものがあると思い込んでいる。だから自分は自分、他人は他人みたいな間違った考え方になる(無明)。

だから身体、言葉、心の習慣が自己中になる(行)。

見たら見たまんま、聞いたら聞いたまんま、痛いなら痛いまんまでいればいいんだけど(識、名色、六処、触、受)、

そこから脳みその中で一歩進めてもっと欲しいもっと欲しいの心を起こす。あるいは裏返しでもう嫌だ見たくもないとか(愛)。

もう一歩進むと今度はあれは良いものだ、これはナマグサだみたいな評価とか取捨選択の心を起こす。ブン殴ったり嘘ついたり不倫したりという行為に及ぶこともあるな(取)。

長いことそうしているとどんどん癖になってくる。例えば最初はちょっと出来心で影口叩いていただけだったのに、だんだん息を吐くように悪口を言うような人になり、さらには綺麗なセリフを聞くと虫唾が走るような人になっていく(有)。

すると一事が万事で何やってもそんな感じになってくる。何をやっても文句ばっかり。何を見ても斜に構えて悪く取ろう悪く取ろうとする人になる。あるいは坊主憎けりゃ袈裟まで憎い家庭やグループにいたらどんどん伝染していく(生)。

こうやって誰も得をしない行為を積み重ねるのって、辛いよね(老死)。

こうしてみると、我々がいつも回答していることってこういうことだったんだなと思っていただけると思います。ぶっちゃけ「現代でもわかりやすい例をあげるとすれば、どういう例が考えられるか」と問われれば、普通にhasunoha読んでいただくのが一番です。

ただ、各項目の関係性とか時間軸とかは仏教の学派や学問の学説にもそれぞれいくつもの説があります。そもそも統一されていないんですね。だから俺の知ってる十二縁起と違う!って叩かないでちょ。

19日前

ご質問を拝読させて頂きました。
十二支縁起は苦の発生の過程を観察したものです。例えると逆に本質を見えづらくするので、逆観しながら説明していきます。

老死をやめるためにはどうすれば良いのだろう。
そうか、生まれるのをやめれば良い。
生まれるのをやめるにはどうすれば良いのだろう。
そうか、存在するのをやめれば良い。
存在するのをやめるにはどうすれば良いのだろう。
そうか、執著するのをやめれば良い。
…と、このように分析していくと、最終的に無明つまり、生存本能を無くせば、すべて苦が滅すると行き着きます。
順観すると、無明さえ無くせば、あとの行〜老死はドミノ倒しで無くなっていきます。

十二支縁起は南方仏教では伝統的に釈尊最初の悟りとされているものですが、パーリ五部の相応部ではもっと原初的な支分の縁起が記されていますので、おそらくは後世に細分体系化されたものだと思います。
また、これは瞑想を行い、観察するものであると言われますから、言葉で掴めないのは仕方がありません。釈尊が「来て見よ。」と言ったのはこのためです。
しかも、細かい部分は見解が分かれ、輪廻の話が関わってきたり、めちゃくちゃ面倒くさいですから、ここで拘っていても全然先に進みません。とりあえず、そんなものがあるんだくらいで良いのではないでしょうか。

19日前
回答僧

吉井浩文

「私が生きている」現象の説明。

たとえば、生きているのがつらいと感じているとします。
何をしても心が休まらない。苦しい。
どうすれば逃れられるのか?

昔の人は輪廻転生を信じていました。
だからたとえこの苦しい思いのまま死んでも、また次の生まれ変わりへの流れを止めることができないのだと。もしかしたら余計悪い流れを作ってしまうかもしれない。
死では解決にならない。そう考えました。

なんとかこの流れを止める方法はないものか。
いやそもそもこの「流れ」ってなんだ?
そもそもどうして「私がいて」「私が苦しんでいる」のか、この流れを分析してみよう。となったのです。
というわけで
「私が生きているから苦しみがある。」
「私が生きている」という現象を因果関係で分析したのが、十二因縁ということになります。

もともと仏教は『諸法無我』を説きますから、「『私がいる』という実感」は明確に錯覚なのです。「私がいる」という錯覚を【無明】と呼んで、その錯覚があるから、その錯覚に沿うような流れを生んでいるとみたのですね。
それならば悟りを開いてこの流れを断ち切ってしまえば、涅槃寂静といって、苦しみから逃れることができる、という話です。
具体的には、十二縁起の中の「愛」(渇愛、世間でいう煩悩)を消すことによって、ドミノ式に前後の流れが断たれると説いています。

ちなみに「愛→取」の流れは実は「無明」と同じなのですね。見方や説明によって違う言葉を使っていますが、この二つを同じ作用とみなして煩悩輪転と呼ぶ場合があります。
ということは「私がいる」という実感は、それ自体「何かを欲求せずにいられない」性質を持っていることになります(ホントかな)。これが輪廻という流れを生むエネルギーになるのです。
同じく「行→識」は「有→生」に対応し、「自我を強化する」段階です。「私」そのものが『実感』どころか実体を持った『概念』になります。
最後の「生、老死」は「私」をはじめとする様々な概念で成り立っている世界そのものを示します。「識→…→受」と同じです。これがまた更なる「無明」を生むのです。

これは私の拙い理解ですので間違いもあるかもしれません。実際、説明だけ聞いてもその通り実践するのは難しいと思いますので、せめてイメージだけでもつかんでいただきたいと思います。

19日前

『聖稲芉経』

みち様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

最近となりますが、「十二縁起」に関する典拠のお経となる『聖稲芉経』の日本語試訳を拝読いたすことができ、拙生も更に詳しく学ばせて頂くことができました。わかりやすいとは言えないかもしれませんが、説かれた背景や、その原理についてもご説示なさられておられるため、理解の補完として是非お役立て頂けましたらと存じます。

『聖稲芉経』
http://media.dalailama.com/Japanese/texts/Sutra-on-Dependent-Origination_JPN.pdf

川口英俊 合掌

19日前

質問者からの有り難し - お礼

早速のご回答ありがとうございます‼

このような質問はなかなかできる場がなく、質問ができて、なおかつご回答をいただけ、とてもありがたく思います❗

また、説には色々あるらしく、対外的には公に回答しづらい質問であろうにも関わらず、たくさんのご回答ありがとうございます‼
たくさんいただけたことで、自分の解釈の幅も拡がったように思います。

個別にお礼を申し上げますが、敬称をどのようにするのが作法かわからず、「様」とお呼びします。ご無礼に値しましたら、申し訳ありません。

吉井浩文 様
最初にご回答いただき、また「イメージだけでもつかんでいただきたい」とご理解いただき、ありがとうございます!

「『私がいる』という錯覚=【無明】」の部分に、そもそもの自分の認識不足があったなぁと感じました。
「輪廻転生」は昔の人にとってはとんでもなく一大事だったのですね。それだけ現世(人々が生きてきた、または生きている時代)が苦しいものであるということでしょうか。
自分にも来世はあるのかもしれません。でも、まずは現世を懸命に生きてみたいと思います。

柳原貫道 様

逆観の説明、最後まで見てみたかったです!
「パーリ五部の相応部ではもっと原初的な支分の縁起が記され」←また調べてみたいものが増えました🎵
実は、今回の質問に至った経緯の元は、瞑想でした。まだまだ瞑想なんてできてなくて、気づくと「今、寝てたか?」ぐらいのものですが(-_-;)
いつか、十二因縁(縁起)の観察にチャレンジできるようになれたら、とも思いました(だいぶ先は長いでしょうが…)
「ここで拘っていても全然先に進みません」→なるほどその通りと思います!わからないことをわかろうとし過ぎず、先に進んでみる勇気も持ちたいと思います。
ありがとうございました‼

賢宗慈海 様

現代的な言葉への置き換えと説明、とてもわかりやすかったです! ありがとうございます‼
説明を何度も読み返し、照らし合わせながら、自分なりにさらに噛み砕いていくことができました(そもそもそれができずに悩んでいたので、それができたことがよろこびでした! とてもとても、ものすごく、参考になりました!)

十二因縁(縁起)と輪廻の関係についても「なるほど💡」でした。説や考え方は色々あるのだとは思います。でも、考え方の足掛かりをいただけたように私は思っています。
これからも色々探究してみたいと思えました!

大慈 様

実生活の中に参考にしていけるご回答、ありがとうございます‼
「普通にhasunoha読んでいただくのが一番」になるほど💡と思いました。
実はhasunohaを知ったのが昨日でして、これから他の問答を読んでみます。その時に、「十二因縁(縁起)のどの部分にあたりそうか」考えながら読んでみます。

「学派や学問の学説にもそれぞれいくつもの説があります」ということは、なかなか回答しづらい内容の質問だったかもしれません。申し訳ありません。
でも、こうやってご回答いただけて、私自身はとても参考になりましたし、きっと他にもそう思う方はいらっしゃると思います。
これからもよろしくお願いいたします‼

川口英俊 様

『聖稲芉経』の日本誤訳ありがとうございました‼
読むことが難しかったですし、内容を理解できたと言えませんが、「理解の補完」は進んだ気がします。

失礼な発言かもしれませんが…どうもこういうものを読んだ時、「つまりは、あまり考えすぎず、今を懸命に生きるってことかな?」と自分勝手に結論してしまいます(>_<)
昔から親や周囲に「自分一人で生きているつもりかっ!」と怒られることが多く、自分勝手な結論と真如との乖離部分が、自分の足りない部分なのかなと思います。その部分、これからの実生活の中で、さらに補完していきたいと思います。
補完が進んで、いつか『聖稲芉経』を真に理解できる日がくればいいな、と思いました!

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