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空間的縁起と論理的縁起の違いとは?

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どちらも相依相関を示す縁起の筈ですが、私には両者を区別する根拠が理解出来ません。
空間的な因果関係を示すのが空間的縁起であり、論理的な相依相関の関係を示すのが論理的縁起ということでしょうか?

また、龍樹の論理的縁起と華厳の法界縁起の最たる違いは何なのでしょうか?

2016年11月8日 17:18

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

「縁起」について

akbcde様

川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。

もう7年前の論考になってしまいますが、下記拙考におきまして、「空間的縁起と論理的縁起」につきまして述べさせて頂いております。

http://oujyouin.com/enginorikai3.html

また、「法界縁起」に関することにつきましては、下記の中にて扱わせて頂いております。

http://oujyouin.com/enginorikai8.html

その中で、「法界縁起」に関しましては、「・・改めまして世俗諦と勝義諦の二諦からまとめますと、時間的縁起・空間的縁起・論理的縁起が世俗諦としての扱いの縁起として、如来・悟りの勝義諦的なところから観た縁起が、華厳思想の「重重無尽の縁起」と言えるのではないかと考えます。・・」と述べさせて頂いております。

上記それぞれは、もうかなり古い内容ですので、色々と修正したいところもありますが、現在における正直な拙見解と致しまして、時間的・空間的・論理的縁起のいずれにせよ、「縁起」については、「実体・自性・自相」による成立の否定についての意義、「空」の理解へと向けてと共に、もう一つは、世俗世界における存在のありようの理解についての意義、つまり、存在の顕現についての私たちの認識のありようについての理解へと向けたものとして把捉していくのが妥当になるのではないかと存じます。

華厳経の説いている「法界縁起」については、上記のように、如来・悟りによる勝義諦的なところから顕現をみた場合における(表現できない世界についてのできる限りの表現的な)表現による世界観であると考えております。つまり、我々の考えている「縁起」とは次元の異なるものになるのではないだろうかと存じております。

川口英俊 合掌

2016年11月9日 9:38
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有り難し
おきもち

川口 英俊
「僧侶は、悩む人に正しいくすりを調剤できる薬剤師であれ」 http:...

質問者からのお礼

回答有り難うございました。
いつもお世話になります。

「仏教における縁起」問答一覧

十二因縁(縁起)を例えると…

日頃、宗教や哲学について、ネットあさりしています。 最近は仏教、特に原始仏教と呼ばれるものに興味を持っていますが、十二因縁(縁起)について、府に落ちたイメージを持つことができません。 そこで、難しい言葉や理論を使わず、現代でもわかりやすい具体的な例えを挙げていただきたいと思い、こちらに質問してみました。 なお、こういった知識(智恵でしょうか?)は、一言では語り難いものでしょうし、また言葉だけでわかったつもりになってはいけないとも思っています。でも、こうもイメージが湧かないと、日頃に意識することも難しい。 ぜひ、「なるほど💡 そんな感じなのね!」と感触を得られ、日常の中でさらに感触を深めていけるような例えを、いただきたいと思っています。 ちなみに、これまで私が掴んだ感触・知識は次の通りです。間違いや不足もあると思いますが、その部分こそ、例えで払拭したり補足したりしていただきたいです。 十二因縁(縁起)とは、 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個 「無明によって行が生じる」のように、前の物が次の因になる。 最後の「生、老死」については、「生まれることで、老いがあり死がある」ということ? では、「無明→行」「行→識」「識→名色」「名色→六処」「六処→触」「触→受」「受→愛」「愛→取」「取→有」「有→生」「老死→無明」はそれぞれ、どのような因果なのか。 現代でもわかりやすい例をあげるとすれば、どういう例が考えられるか。 仏教に疎い者でもわかりやすい例を、ぜひよろしくお願いしますm(_ _)m

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ダンマパダより!「愚か」「縁起や道理を理解」とは?

 いつもお世話になっております。  ビルクリーニング技能士と並行し、気分転換がてらダンマパダ を勉強しています。その中に、 「もし旅に出て、自分より尊い、または等しき人に出会うことが できなければ、むしろきっぱりと一人で行け。愚かな人を道連れ にしてはならぬ。」という文言がありました。  この他にも、「愚か」という言葉がたくさん出て来て、 お釈迦さまでもこんなこと言うんだ…wという感じです。  死んだジジィも、「バカはほっとけ!」(狙ってないわよ?) と言ってました。  調べてみましたが、このような解釈で間違いないでしょうか。  愚か=愚痴=無明。  愚痴、無明とは「縁起や道理をわきまえずに自己中心的な 理論や考え方で、同じくそのように振舞う様」とのこと。  例として、いきなり道端の人を挑発したりdisる奴と、 それにガチでキレる私。    反対に、縁起や道理をわきまえるというのは、 「原因と過程を察して冷静に対処する」ということでしょうか。  例えばあのお嬢様が睨んで来たら、「あぁこの人もなにか事情が あるんだな」と思ってほっといてあげる。  既に存在するルールに照らし合わせて合理的に判断し、 適宜そこから離れるか、管理者や知識ある方の指示を仰ぐ。  例としてお説教会のセクハラwww  お釈迦様が悟ったのは人間界を効率よく生き抜くための法則 だと聞きました。これらの見解で問題ないでしょうか。  ご意見お待ちしております。

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縁起論争

上山春平・梶山雄一編  「仏教の思想 その原型をさぐる」 より  縁起ということは相依性(idappaccayata)ということで、相依性とは「これがあるとき、かれがある。これが生ずるとき、かれが生ずる。これがないとき、かれがなく、これが滅びるから、かれが滅びる」ということであると説かれている。後の中観学派では、この相依性は交互因果・交互媒介の意味でAとBとが、AがあるときBがあり。BがあるときAがあるという、A⇔Bの関係を成立させることであるという。『中論』の立場は空すなわち無自性(自己原因としての実体概念の否定)ということを、一切の存在(法)の交互媒介性によって考えようとするのである。  原始仏教の縁起説で縁起支の相互の関係が一方的な基礎づけの系列であるか、あるいは交互媒介的であるかは、わが国の学者の間でも議論のあったところで、一方的基礎づけと考えるのは和辻哲郎説であり、交互媒介説は宇井伯寿説が代表的である。和辻説によると、縁起支の関係がもし全く相互的であるとすれば、根拠付けの系列に縁起支の全体を秩序付けることも、本来不可能なことになる。これに対して宇井説は、原始仏教の縁起では、それぞれの縁起死が自己の中に全系列を映じ、いわば世界とモナドのような互いに映じ合う関係にあるとする。その結果縁起支AとBとの間に予定調和に基づく相互融入の関係が成立する。要するに相即相入という華厳哲学の交互媒介を───一即一切の世界観を前提としながら───原始仏教の縁起説の相依性を及ぼそうとするのが宇井説の特色である。 宇井伯寿や和辻哲郎は共に十二支縁起を「相依性」と解釈していた筈ですが、これによると両者の縁起観に若干の違いが有ると見受けられます。 和辻の主張する「一方的基礎づけ」と宇井伯寿の主張する「交互媒介」にはどのような違いが有るのでしょうか? 両博士は縁起の「相依性」を主張していた筈ですが、私にはこれらの差異が何を意味しているのかさっぱりです。

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