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「仏教における縁起」問答(Q&A)一覧

嫌な妄想が本当に起こるのではないかと不安

おそらく強迫性障害です。妄想が本当になってしまうのではないかと不安です。  少し前にインターネットに話を書きました。 数日前、ふと知人Aさんがその話みたいになってしまうのではないかと妄想してしまい不安になりました。 実際は、話とAさんはなにも関係がないのにです。 そう妄想して以来自分のその話を読んだときにAさんの顔が毎回思い浮かんだり、その話について考えた時、Aさんをイメージしてしまったりして、それがため、Aさんがその話みたいになったり、同じような運命をたどるのではないか、と意味不明なことを考えてしまいます。 だから、何度も話を見て、Aさんの顔が思い浮かばないか、確認してしまいます。 そしてそのたびにAさんの顔が思い浮かび不安になります。 また、その話の特徴にAさんが当てはまっておりなおさら不安でたまりません。  また、Aさんがふと別の人のつくりった話になるんじゃないかって思ったときは、別な人の話が次の日何と違反もしてないのに、運営から削除されたとしり、それが、Aさんが別な人の話みたいにならないから、運営から削除されたんだったらどうよう。  話の登場人物を相談するときAさんと似た姿を想像してしまった気がして不安になります また、Aさんの顔写真をみて、話みたいになってしまう気がして不安です。人物にピッタリ合う気さえしてくる気がして不安で仕方ないです。本当はそんなことないのに 一日中このことばかり考えて不安です。  その文章を読んだ時に顔が思い浮かんだり、当てはまる部分があるからと言って、Aさんがその話みたいになったてしまうことはありますか?  Aさんと話の共通点があるのは偶然ですか?  なんらかの何か見えない力で、Aさんが話みたいになってしまったりしたらどうしよう、とかも考えて不安になります。 おそらくAさんの容姿の良さに嫉妬していたため、そのような妄想をしたんだと思います。 今は嫉妬はしてませんが、不安です。 不安でたまらないので、仏教の力を、お借りしたいです。 拙い文章で申し訳ありませんが何かアドバイスが欲しいです

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人からひどく恨まれていて恐ろしいです。

貴重な質問枠を失礼します。 私にはある友人がいました。 私のふとした発言や、関わり方を不義理だと思ったようで、 いろいろ責められることを言われ、私はただ謝ることしかできず、 そんなことが数度繰り返されてもなお、関係を維持してきました。 責められるとき、私が言ったことのないことを「言った」と誤って解釈されています。 さんざん許してやったのに、自分中心で依存的だと言われています。 その人は、共通の友人のこともどんどん縁を切っていき、学生時代の付き合いでは私が最後の一人です。 そんな状況で私から縁を経つのはひどい裏切りのように感じ、 また、縁を切った相手をSNS上でまくしたてているのを見てきたので、それが恐ろしくてたまりません。 私から縁を切ったら、きっと同じように責められることだろうと思います。 その人の中では、その人が被害者で私は加害者になるのだろうと思います。 恨まれてしまうのはもう仕方ないとしても、仏教の教えの中で、世の中の誰かに加害者として恨まれると、いったいどうなるのでしょうか。 なるべく、人には穏やかに、感謝の気持ちを伝え、役に立つように生きてきましたが、今後の人生や死後において、罪を背負うのでしょうか。

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十二因縁(縁起)を例えると…

日頃、宗教や哲学について、ネットあさりしています。 最近は仏教、特に原始仏教と呼ばれるものに興味を持っていますが、十二因縁(縁起)について、府に落ちたイメージを持つことができません。 そこで、難しい言葉や理論を使わず、現代でもわかりやすい具体的な例えを挙げていただきたいと思い、こちらに質問してみました。 なお、こういった知識(智恵でしょうか?)は、一言では語り難いものでしょうし、また言葉だけでわかったつもりになってはいけないとも思っています。でも、こうもイメージが湧かないと、日頃に意識することも難しい。 ぜひ、「なるほど💡 そんな感じなのね!」と感触を得られ、日常の中でさらに感触を深めていけるような例えを、いただきたいと思っています。 ちなみに、これまで私が掴んだ感触・知識は次の通りです。間違いや不足もあると思いますが、その部分こそ、例えで払拭したり補足したりしていただきたいです。 十二因縁(縁起)とは、 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個 「無明によって行が生じる」のように、前の物が次の因になる。 最後の「生、老死」については、「生まれることで、老いがあり死がある」ということ? では、「無明→行」「行→識」「識→名色」「名色→六処」「六処→触」「触→受」「受→愛」「愛→取」「取→有」「有→生」「老死→無明」はそれぞれ、どのような因果なのか。 現代でもわかりやすい例をあげるとすれば、どういう例が考えられるか。 仏教に疎い者でもわかりやすい例を、ぜひよろしくお願いしますm(_ _)m

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ダンマパダより!「愚か」「縁起や道理を理解」とは?

 いつもお世話になっております。  ビルクリーニング技能士と並行し、気分転換がてらダンマパダ を勉強しています。その中に、 「もし旅に出て、自分より尊い、または等しき人に出会うことが できなければ、むしろきっぱりと一人で行け。愚かな人を道連れ にしてはならぬ。」という文言がありました。  この他にも、「愚か」という言葉がたくさん出て来て、 お釈迦さまでもこんなこと言うんだ…wという感じです。  死んだジジィも、「バカはほっとけ!」(狙ってないわよ?) と言ってました。  調べてみましたが、このような解釈で間違いないでしょうか。  愚か=愚痴=無明。  愚痴、無明とは「縁起や道理をわきまえずに自己中心的な 理論や考え方で、同じくそのように振舞う様」とのこと。  例として、いきなり道端の人を挑発したりdisる奴と、 それにガチでキレる私。    反対に、縁起や道理をわきまえるというのは、 「原因と過程を察して冷静に対処する」ということでしょうか。  例えばあのお嬢様が睨んで来たら、「あぁこの人もなにか事情が あるんだな」と思ってほっといてあげる。  既に存在するルールに照らし合わせて合理的に判断し、 適宜そこから離れるか、管理者や知識ある方の指示を仰ぐ。  例としてお説教会のセクハラwww  お釈迦様が悟ったのは人間界を効率よく生き抜くための法則 だと聞きました。これらの見解で問題ないでしょうか。  ご意見お待ちしております。

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縁起論争

上山春平・梶山雄一編  「仏教の思想 その原型をさぐる」 より  縁起ということは相依性(idappaccayata)ということで、相依性とは「これがあるとき、かれがある。これが生ずるとき、かれが生ずる。これがないとき、かれがなく、これが滅びるから、かれが滅びる」ということであると説かれている。後の中観学派では、この相依性は交互因果・交互媒介の意味でAとBとが、AがあるときBがあり。BがあるときAがあるという、A⇔Bの関係を成立させることであるという。『中論』の立場は空すなわち無自性(自己原因としての実体概念の否定)ということを、一切の存在(法)の交互媒介性によって考えようとするのである。  原始仏教の縁起説で縁起支の相互の関係が一方的な基礎づけの系列であるか、あるいは交互媒介的であるかは、わが国の学者の間でも議論のあったところで、一方的基礎づけと考えるのは和辻哲郎説であり、交互媒介説は宇井伯寿説が代表的である。和辻説によると、縁起支の関係がもし全く相互的であるとすれば、根拠付けの系列に縁起支の全体を秩序付けることも、本来不可能なことになる。これに対して宇井説は、原始仏教の縁起では、それぞれの縁起死が自己の中に全系列を映じ、いわば世界とモナドのような互いに映じ合う関係にあるとする。その結果縁起支AとBとの間に予定調和に基づく相互融入の関係が成立する。要するに相即相入という華厳哲学の交互媒介を───一即一切の世界観を前提としながら───原始仏教の縁起説の相依性を及ぼそうとするのが宇井説の特色である。 宇井伯寿や和辻哲郎は共に十二支縁起を「相依性」と解釈していた筈ですが、これによると両者の縁起観に若干の違いが有ると見受けられます。 和辻の主張する「一方的基礎づけ」と宇井伯寿の主張する「交互媒介」にはどのような違いが有るのでしょうか? 両博士は縁起の「相依性」を主張していた筈ですが、私にはこれらの差異が何を意味しているのかさっぱりです。

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