アイドルの応援をしています。 配置等を加工した写真を貼り、グループの発展を願う絵馬を奉納したいと考えています。 最終的に絵馬は焚き上げされるので、写真の貼られた絵馬は縁起が悪いでしょうか? グループにとって良くない影響となる場合には、写真を貼るのをやめようと考えています。 お返事をいただけると大変助かります。 宜しくお願い致します。
家の玄関脇に大きめのモクレンの木があります。シンボルツリーといってもよい木ですが、中古で購入した家のため、植えたのは前の住人です。なかなか手入れが出来ず、毎年高額の剪定を依頼しています。困るのは冬前に大きな葉っぱが大量に落下することで、朝昼晩拾っても追いつかない程です。いっそのこと伐採をと考えますが、縁起が良くないでしょうか? 他にも前の住人が植えた魔除けのヒイラギ、鬼門のナンテンがありますが、それらも切らない方が良いのでしょうか? ご回答よろしくお願い致します。
ご閲覧ありがとうございます。 先日、お寺に行きおみくじを引いたところ大吉を引きました。 その際に、「金運:輝かしいお恵みが待っています。色事に迷うと凶」と書いてありました。 ただ、その後賭け事に手を出してしまい、財産を失ってしまったのですが 失った後に心を入れ替えて取り組んでいけば今自分にある金運はまだ付いているものでしょうか? それとも、警告したにも関わらず、色事に手を出してしまった自分からは神様は金運を授けてくださらず、もうチャンス等は与えられていない状態でしょうか。 その他にも「一発勝負は身を滅ぼす」や、「信心を持てば成功するが、無ければ大凶」のような記載が多々あった為、不安になってしまいました。 おみくじの内容は何度かチャンスを貰えるものなのでしょうか。
質問があります。 よろしくお願いします。 祖父のお葬式の最中に 次男が握っていた数珠が突然切れました。 (次男からみれば曽祖父) 強く握ったり動かしてもいなく 突然切れたので驚きました。 次男は前厄であり 不吉な事かも?と不安に思っています。 数珠は家にあった物です。 誰のものという物でもないです。 不吉な事なのでしょうか? 教えてください。 よろしくお願いします
以前質問したときに気になる回答がありました。幸福も不幸も因縁次第であり幸せになる縁を作ることで幸せになれるみたいな回答がありました。 ではどんな原因を作れば幸せになれるのか? 人生に絶望しています。 何故幸せになるのはこんなに難しいのか? とても自分には無理です。だれかに助けてもらわないと 死んだ方がいいと思いながら死ぬふんぎりがつきません。 死のうか迷いながら苦しい思いをし続けて生きて結局死ぬなら今勇気を出して自分の命を絶つ方が賢いのでは? とても自分で自分を幸せにすることができそうにありません。誰かに助けて欲しいです。辛いです。 苦しみに耐えられそうにありません。どうすれば幸せになれるのですか?苦しいのに生きる意味はあるのか?苦しみに耐えていればいづれ幸せになれるのか? 私の人生って一体なんのためにあるんだろうか?と思うぐらい楽しくなく世の中に何も残しません私が死んでも誰もなんとも思ってくれません。
おはようございます。 私は22歳あたりから(現在24歳)、自分で言うのもなんですが、目まぐるしい程の縁が切れたり、それ以上の縁が結ばれたりします。 それまでは何事もなく、ただ生活をしていたようなだけでした。 長い付き合いの人とも、今年のお正月あたりに縁が切れました。 そしてその後に、やりたいことがうまく行く、夢が叶い始めるなど、なんだか何も良い行いなんかしていない私になぜ、こんな素敵な縁を与えてくださるのか。 不思議でたまりません。 私は元々ネガティヴ思考なので、 こんなに良いことがあると、悪いことが起きるのではないか。みたいな考えに囚われてしまいます。 このように、 結ばれた素敵なご縁を存分に生かしたいのにうまく心と体がリンクしません。 どのような心構えで 縁と向き合えば良いか教えていただきたいです。 よろしくお願いします。 文章が下手ですみません、
来世や霊魂の存在を信じると、悪いこと(嘘をつく、浮気をする、殺生をする)ができなくなるので、信じたいと思っています。 誰かを傷つけると、傷つけた相手の念によって、現世か来世で必ずその見返りを受けると思っています。少なくともそのような緊張感を持ちたいと思っています。 しかし、知り合いなどに「罰が当たる」とか「先祖の霊が悲しむ」などというと、非科学的だと笑われます。 来世や霊魂の存在に否定的な人は、世の中に多いですが、それが心の支えになるなら、信じたほうがいいように思うのですが、いかがでしょうか。 そういったものを信じずに、悪いことをするよりは、非科学的でも信じて悪いことをしない方がいいと思うのですがいかがでしょうか。
おそらく強迫性障害です。妄想が本当になってしまうのではないかと不安です。 少し前にインターネットに話を書きました。 数日前、ふと知人Aさんがその話みたいになってしまうのではないかと妄想してしまい不安になりました。 実際は、話とAさんはなにも関係がないのにです。 そう妄想して以来自分のその話を読んだときにAさんの顔が毎回思い浮かんだり、その話について考えた時、Aさんをイメージしてしまったりして、それがため、Aさんがその話みたいになったり、同じような運命をたどるのではないか、と意味不明なことを考えてしまいます。 だから、何度も話を見て、Aさんの顔が思い浮かばないか、確認してしまいます。 そしてそのたびにAさんの顔が思い浮かび不安になります。 また、その話の特徴にAさんが当てはまっておりなおさら不安でたまりません。 また、Aさんがふと別の人のつくりった話になるんじゃないかって思ったときは、別な人の話が次の日何と違反もしてないのに、運営から削除されたとしり、それが、Aさんが別な人の話みたいにならないから、運営から削除されたんだったらどうよう。 話の登場人物を相談するときAさんと似た姿を想像してしまった気がして不安になります また、Aさんの顔写真をみて、話みたいになってしまう気がして不安です。人物にピッタリ合う気さえしてくる気がして不安で仕方ないです。本当はそんなことないのに 一日中このことばかり考えて不安です。 その文章を読んだ時に顔が思い浮かんだり、当てはまる部分があるからと言って、Aさんがその話みたいになったてしまうことはありますか? Aさんと話の共通点があるのは偶然ですか? なんらかの何か見えない力で、Aさんが話みたいになってしまったりしたらどうしよう、とかも考えて不安になります。 おそらくAさんの容姿の良さに嫉妬していたため、そのような妄想をしたんだと思います。 今は嫉妬はしてませんが、不安です。 不安でたまらないので、仏教の力を、お借りしたいです。 拙い文章で申し訳ありませんが何かアドバイスが欲しいです
貴重な質問枠を失礼します。 私にはある友人がいました。 私のふとした発言や、関わり方を不義理だと思ったようで、 いろいろ責められることを言われ、私はただ謝ることしかできず、 そんなことが数度繰り返されてもなお、関係を維持してきました。 責められるとき、私が言ったことのないことを「言った」と誤って解釈されています。 さんざん許してやったのに、自分中心で依存的だと言われています。 その人は、共通の友人のこともどんどん縁を切っていき、学生時代の付き合いでは私が最後の一人です。 そんな状況で私から縁を経つのはひどい裏切りのように感じ、 また、縁を切った相手をSNS上でまくしたてているのを見てきたので、それが恐ろしくてたまりません。 私から縁を切ったら、きっと同じように責められることだろうと思います。 その人の中では、その人が被害者で私は加害者になるのだろうと思います。 恨まれてしまうのはもう仕方ないとしても、仏教の教えの中で、世の中の誰かに加害者として恨まれると、いったいどうなるのでしょうか。 なるべく、人には穏やかに、感謝の気持ちを伝え、役に立つように生きてきましたが、今後の人生や死後において、罪を背負うのでしょうか。
最近、ある記事の内容で6のゾロ目は良くないという事を目にしてしまいました。それから街でその数字を見かけたり、車を運転していてそのナンバーの車が走っていたりすると、嫌な気持ちになったり不安に思う気持ちが拭えません。気にしているせいか余計に目に入ってしまいます。元々時計などでゾロ目をよく目にしていた為、ただの偶然なのだと思いながらも何となく数字の意味など調べたりしてしまった為に偶々そんな記事を目にしてしまいました。仏教では数字の節目などがあるので、数字に関する意味などはあるのかどうかお聞きしたいと思いました。占いなどと一緒で単純に自分が気にしなければ良いだけことなのだとは思いますが、目に入るとついつい関連付けて考えてしまいます。気持ちの問題かと思いますが、ご意見お聞かせください。
順観と逆観について調べていると、逆観について二種類の解釈の仕方が有って非常に混乱します。 一つは、「無明が滅すれば、行が滅する...生が滅すれば、老死が滅する」という上から下へ降る否定の形式です。 もう一つが「老死が滅すれば、生が滅する...行が滅すれば、無明が滅する」といった逆に下から上に昇る否定の形式です。 これらの解釈は宗派によって分かれているものなのでしょうか? また、二つの言い回しの違いは、それぞれどのような意味が有るのでしょうか? 何卒お坊さま方の智慧をお借りしたく存じ上げます。
日頃、宗教や哲学について、ネットあさりしています。 最近は仏教、特に原始仏教と呼ばれるものに興味を持っていますが、十二因縁(縁起)について、府に落ちたイメージを持つことができません。 そこで、難しい言葉や理論を使わず、現代でもわかりやすい具体的な例えを挙げていただきたいと思い、こちらに質問してみました。 なお、こういった知識(智恵でしょうか?)は、一言では語り難いものでしょうし、また言葉だけでわかったつもりになってはいけないとも思っています。でも、こうもイメージが湧かないと、日頃に意識することも難しい。 ぜひ、「なるほど💡 そんな感じなのね!」と感触を得られ、日常の中でさらに感触を深めていけるような例えを、いただきたいと思っています。 ちなみに、これまで私が掴んだ感触・知識は次の通りです。間違いや不足もあると思いますが、その部分こそ、例えで払拭したり補足したりしていただきたいです。 十二因縁(縁起)とは、 無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死の12個 「無明によって行が生じる」のように、前の物が次の因になる。 最後の「生、老死」については、「生まれることで、老いがあり死がある」ということ? では、「無明→行」「行→識」「識→名色」「名色→六処」「六処→触」「触→受」「受→愛」「愛→取」「取→有」「有→生」「老死→無明」はそれぞれ、どのような因果なのか。 現代でもわかりやすい例をあげるとすれば、どういう例が考えられるか。 仏教に疎い者でもわかりやすい例を、ぜひよろしくお願いしますm(_ _)m
いつもお世話になっております。 ビルクリーニング技能士と並行し、気分転換がてらダンマパダ を勉強しています。その中に、 「もし旅に出て、自分より尊い、または等しき人に出会うことが できなければ、むしろきっぱりと一人で行け。愚かな人を道連れ にしてはならぬ。」という文言がありました。 この他にも、「愚か」という言葉がたくさん出て来て、 お釈迦さまでもこんなこと言うんだ…wという感じです。 死んだジジィも、「バカはほっとけ!」(狙ってないわよ?) と言ってました。 調べてみましたが、このような解釈で間違いないでしょうか。 愚か=愚痴=無明。 愚痴、無明とは「縁起や道理をわきまえずに自己中心的な 理論や考え方で、同じくそのように振舞う様」とのこと。 例として、いきなり道端の人を挑発したりdisる奴と、 それにガチでキレる私。 反対に、縁起や道理をわきまえるというのは、 「原因と過程を察して冷静に対処する」ということでしょうか。 例えばあのお嬢様が睨んで来たら、「あぁこの人もなにか事情が あるんだな」と思ってほっといてあげる。 既に存在するルールに照らし合わせて合理的に判断し、 適宜そこから離れるか、管理者や知識ある方の指示を仰ぐ。 例としてお説教会のセクハラwww お釈迦様が悟ったのは人間界を効率よく生き抜くための法則 だと聞きました。これらの見解で問題ないでしょうか。 ご意見お待ちしております。
どちらも相依相関を示す縁起の筈ですが、私には両者を区別する根拠が理解出来ません。 空間的な因果関係を示すのが空間的縁起であり、論理的な相依相関の関係を示すのが論理的縁起ということでしょうか? また、龍樹の論理的縁起と華厳の法界縁起の最たる違いは何なのでしょうか?
少し前に質問させて頂いた者なのですが、その時にあるお坊様の方から「見方次第ですが、縁起には重大な欠点があります」との御回答を頂いたのですが、 果たして縁起の欠点とはどういうものなのでしょうか? 自分でも明確な答えを出せないままなのですが、強いて言うならば 私のような凡夫がお釈迦様の教えである縁起を間違って解釈してしまうことで、 本来執着を捨てる為の教えである縁起が、更に強い執着を生み出してしまうからだ、と解しました。 どうか皆様のご意見をお聞かせ頂けませんでしょうか?
私は仏教哲学を勉強し始めたばかりの凡夫でありますが、仏教の縁起説に関して一つ疑問に思うところが有ります。 もちろん、縁起説の欠点だとかそういう物ではありません。 仏教には時間的生起を認める「此縁性縁起」と、時間や空間を論理的に関係づける「相依性縁起」の二つが代表的だと聞きます。 主に前者は釈尊の説かれた縁起とされ、後者は龍樹大師の説かれた縁起とされていますが、これらは学者によって意見が真っ二つであることを、最近本で知りました。 例を挙げるならば松本史朗博士が「龍樹は此縁性縁起を説いた」といった感じですね。 1.果たして今現在の仏教界(?)のこれらに対する見解の主流はどうなっているのでしょうか? 2.また、以下の二つのリンクに対するご感想を伺っても宜しいでしょうか? ネットの意見を鵜呑みにするのもどうかとは思いますが、個人的にはこの方の縁起説は大変興味深いものだと思われます。 http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku02.html http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku03.html
上山春平・梶山雄一編 「仏教の思想 その原型をさぐる」 より 縁起ということは相依性(idappaccayata)ということで、相依性とは「これがあるとき、かれがある。これが生ずるとき、かれが生ずる。これがないとき、かれがなく、これが滅びるから、かれが滅びる」ということであると説かれている。後の中観学派では、この相依性は交互因果・交互媒介の意味でAとBとが、AがあるときBがあり。BがあるときAがあるという、A⇔Bの関係を成立させることであるという。『中論』の立場は空すなわち無自性(自己原因としての実体概念の否定)ということを、一切の存在(法)の交互媒介性によって考えようとするのである。 原始仏教の縁起説で縁起支の相互の関係が一方的な基礎づけの系列であるか、あるいは交互媒介的であるかは、わが国の学者の間でも議論のあったところで、一方的基礎づけと考えるのは和辻哲郎説であり、交互媒介説は宇井伯寿説が代表的である。和辻説によると、縁起支の関係がもし全く相互的であるとすれば、根拠付けの系列に縁起支の全体を秩序付けることも、本来不可能なことになる。これに対して宇井説は、原始仏教の縁起では、それぞれの縁起死が自己の中に全系列を映じ、いわば世界とモナドのような互いに映じ合う関係にあるとする。その結果縁起支AとBとの間に予定調和に基づく相互融入の関係が成立する。要するに相即相入という華厳哲学の交互媒介を───一即一切の世界観を前提としながら───原始仏教の縁起説の相依性を及ぼそうとするのが宇井説の特色である。 宇井伯寿や和辻哲郎は共に十二支縁起を「相依性」と解釈していた筈ですが、これによると両者の縁起観に若干の違いが有ると見受けられます。 和辻の主張する「一方的基礎づけ」と宇井伯寿の主張する「交互媒介」にはどのような違いが有るのでしょうか? 両博士は縁起の「相依性」を主張していた筈ですが、私にはこれらの差異が何を意味しているのかさっぱりです。
縁起にも様々な種類が有りますが、釈迦や龍樹が説かれた縁起の違いとは何でしょうか? また、縁起=空=無自性は恒常不変である万物を想定しませんが、縁起の働きそのものは永遠ですか? それとも縁起自体もやがて死滅する物でしょうか? もし縁起が死滅するとして、その後に訪れるのは一体何だと思われますか?
あらゆる物は縁によって生起させられる故に「無自性」・「空」であり、 その縁起すらも恒久的に存在するのではなく「不生」「無自性」であると喝破し、 最終的には「空」の否定により戯論が寂静した境地こそが、涅槃・勝義諦であると云う事でしょうか? ところで龍樹は「釈尊は不生不滅にして戯論寂静なる縁起をお説きになった。」と仰られておりますが、 「戯論寂静なる勝義こそが縁起」と云う事はあまり耳にしません。 これらの事について解説して頂いても宜しいでしょうか?
仏教の縁起について教えて下さい。
より幸せに暮らすヒント
幸せが循環する社会を目指して
高校生が真剣に悩み相談に乗ってみた
教えと名言・逸話
仏教の根幹となる教え
仏教が説く8つの苦とは
シェアハッピーの精神
同じ処でもう一度会うために
自由=自分に由る
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