縁起論争
上山春平・梶山雄一編
「仏教の思想 その原型をさぐる」 より
縁起ということは相依性(idappaccayata)ということで、相依性とは「これがあるとき、かれがある。これが生ずるとき、かれが生ずる。これがないとき、かれがなく、これが滅びるから、かれが滅びる」ということであると説かれている。後の中観学派では、この相依性は交互因果・交互媒介の意味でAとBとが、AがあるときBがあり。BがあるときAがあるという、A⇔Bの関係を成立させることであるという。『中論』の立場は空すなわち無自性(自己原因としての実体概念の否定)ということを、一切の存在(法)の交互媒介性によって考えようとするのである。
原始仏教の縁起説で縁起支の相互の関係が一方的な基礎づけの系列であるか、あるいは交互媒介的であるかは、わが国の学者の間でも議論のあったところで、一方的基礎づけと考えるのは和辻哲郎説であり、交互媒介説は宇井伯寿説が代表的である。和辻説によると、縁起支の関係がもし全く相互的であるとすれば、根拠付けの系列に縁起支の全体を秩序付けることも、本来不可能なことになる。これに対して宇井説は、原始仏教の縁起では、それぞれの縁起死が自己の中に全系列を映じ、いわば世界とモナドのような互いに映じ合う関係にあるとする。その結果縁起支AとBとの間に予定調和に基づく相互融入の関係が成立する。要するに相即相入という華厳哲学の交互媒介を───一即一切の世界観を前提としながら───原始仏教の縁起説の相依性を及ぼそうとするのが宇井説の特色である。
宇井伯寿や和辻哲郎は共に十二支縁起を「相依性」と解釈していた筈ですが、これによると両者の縁起観に若干の違いが有ると見受けられます。
和辻の主張する「一方的基礎づけ」と宇井伯寿の主張する「交互媒介」にはどのような違いが有るのでしょうか?
両博士は縁起の「相依性」を主張していた筈ですが、私にはこれらの差異が何を意味しているのかさっぱりです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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難しい本を読んでいらっしゃいますね
大学生の時に教授に質問しました。「和辻哲郎のような古典も読んだ方が良いですか?」すると教授は言いづらそうにこうおっしゃいました。「う〜ん…昔の研究も読んだ方がいいのはいいだけど、和辻哲郎はいくらなんでも古すぎるからねぇ…」ゆえに勉強したことがありませんので、ここで読んだ範囲での解釈になります。ただ、この手の議論自体はよくありますので回答できるかと…
①蛇口があるから、水が出る。蛇口がないと、水もない。
これが和辻説の一方的基礎づけです。蛇口は原因であり、水は結果です。しかし、水があるから、蛇口もある、とはなりません。水が原因で、蛇口は結果とはならないわけです。
②親がいるから、子がいる。子がいるから、親である。
これが宇井説の交互媒介です。親が産んだから子がいるのですから、親が原因であり、子は結果です。しかし同時に、子の存在は、親が親であることの裏付けです。つまり結果が原因を裏付けています。
※ここでの「いる」や「存在」は産まれたという事実があることを意味します。今後死んだら…というのは関係しません。
①は此縁性、②は相依性ですので、和辻説は相依性ではありません。
この例を読んでいただければ分かるように、同じ縁起説でも別の領域で話をしていますのでどちらが正しいかという話ではありません。相依性は原始仏教にも説かれているかどうかという時代の問題です。
また、十二支縁起は後世に整理されたものであり、三支縁起や四支縁起がより古い形とされていますので、この辺りも混同しないようにしましょう。
辞書を引くためエンドレスに辞書を引く状態が解消されたのは中村元からです。しかし今となっては中村元世代も今の現役世代から2世代前の古い研究です。『仏教の思想 その原型をさぐる』自体もけっこう古いようですが、最近の本の方が読みやすく質も良いですよ。佐々木閑とか「この難解を絵に描いたようなテキストをこんなに分かりやすく書く先生が現れたか!!」と目から鱗でした。また、哲学者よりも仏教学者の方が無難です。哲学者は幅広く研究する一環として仏教を扱う人と、仏教を専門で研究する人の見分けがつきにくいですが、仏教学者は少なくとも仏教の範囲ですので。
質問者からのお礼
回答有り難う御座いました。
和辻哲郎が宇井伯寿と共に「相依性縁起」を主張していた、
とどこかで読んだ憶えがありましたので、今回の問題には非常に頭を悩ませました。
和辻の言っている内容は明らかに「此縁性縁起」ですからね。
私の様な理解の遅い凡夫の為に、丁寧にご教示してくださって本当に有り難うございます。