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バリアをはってしまいます

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有り難し有り難し 28

私は、太刀打ち出来ない!脅威だ!しかし、関わりを絶つことは出来ないと思う人物を、簡単に拒否してしまい、縁を切りたい!と思ってしまいます。
話の内容を他の人に話せば、私は正しく、相手が間違っているだろうことが多いのですが、かといって、忘れることが出来ず、憎しみ、悲しみ、悪い感情に飲まれてしまいます。
心が狭いのはわかります。
広く保てるように…というのはどうすればいいですか?
他人だもの、しょうがない。とか、認めるというのが出来ないことがあります。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ヘイと勘定の1秒前1秒後

人間嫌いな人がいて当然です。
キライなら嫌いでよいのです。
私にもいます。しょっちゅうウチの寺に水を飲みに来るんです。なるべく距離を置いてます。チョッカイ出すと襲ってきます。黒い服を着てるろクマと勘違いされて襲われたこともあります。とくにあのお尻。見ているだけで嫌悪感が沸いてきます。ホンット、大っ嫌いですスズメバチ。(人じゃねー)
キライという感情はその感情を起こしている時だけが嫌いでその前後1秒前、1秒後は嫌いでも何でもないという真実を知ってください。
極端に嫌いだキライだというプラカードを握りしめて過度過剰に認めて、確実にキライという決めつけことに陥らんことです。
ああ、この人ダメだわ、仲良くできんわ、と思ったら、それはそれで真実ですが、それはあくまで一瞬の真実。恋だって、何でもなかった人を急に好きになったりするでしょう。
ですから嫌いという嫌悪感なんぞは一時、一瞬の、一念でしかないのです。
その思いが出ていない時にその人を見ていればその人は「ただの人」です。
嫌悪感を無くす方法があります。ヘイト感情は煎じ詰めていきますと自分を認めた自分中心な考え方でものを眺めている状態ですから、物事や相手を「枉げて」みている心理なのです。
だから、こちらが嫌う前の姿を見極めると嫌う心は消えます。
相手に対してこのように考察することも効果的です。
「汝が嫌う人は、他者にとっての好ましき人であり、汝の好む人は誰かにとっての嫌いな人であり、他者を好き嫌いする汝も誰かに嫌われていた俐好かれているものなり」と仏典ではなく吉高由里子が指を舐めながら言ってます。下記参照
「人に出逢ったばかりの出会い頭の時点に於いては考えが働いてないので、好き嫌いの無い様子として接している」ことを見極めましょう。明らかにするまで参禅してみてください。

私が嫌いなあの人も
どこかで誰かの特別な人なんだろうな
私が好きなあの人も
どこかの誰かに嫌われてるんだろうな
そんな事思う私はどこかで
顔も知らない誰かに
恨まれたり愛されたりするのだろうか
顔も知らない誰かを
私は恨んだり愛せたりするのだろうか

さっきから指先ばかり舐めてる 
参考文献 吉高由里子ツイッター
 

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ある日突然ふと気付いて

拝読させて頂きました。あなたのおっしゃることわかります。好きな人嫌いな人脅威に感じる人尊敬できる人それはどうしてもありますよね。私もそうですし、私もその様に人から思われております。又好きな人をある日突然嫌いになったりその逆もありますよね。自分も周りの人たちもその様にあいまいなひとりよがりな自分があることを認めることかと思いますね。つまり自分の愚かなことを認めることかと思いますね。
そうすると見え方が変わってくるのではないでしょうか。そうであって当たり前。ですから恨み憎しみも実は愚かさですからね。
最初は難しいかもしれませんが、じっくりと考えてみてくださいね。
ある日ある時ふと気がつくこともありますからね。

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おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

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