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苦しいです

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こんにちは
成人した子供2人と高齢の母と同居しています

下の子は中学からの不登校でしたがこの春無事通信の高校を卒業しました
今はアルバイトをしていますが時々自分の将来に不安を感じて暴れます
先日も壁に穴をあけました

上の子は数年前同居していて、その時には仕事がなく私のお金を盗んでいました
そしてこの家を出ていき、在宅勤務の仕事を始めて落ち着いたので最近戻ってきました

やっと家族がそろって楽しくなると思っていた矢先、母が仏壇に置いておいた10万円がなくなりました
母がどこかに片付けて忘れてしまったのではと思い母に聞きながら考えられる場所を探しましたがありませんでした

上の子にも確認しました
そして本人も、自分の過去の行動で疑われても仕方がない、部屋を探してもいい、と言うので部屋中探しましたが、ありませんでした

下の子は精神的に不安定ですが、あまりお金には興味がないです

上の子が戻ってきたらなくなった10万円
子供を信じてあげたい
どうか母がどこかにしまい忘れてますようにと思っています
今、家族全員が傷ついています
なぜいつも私はこんなに嫌な思いばかりするのか
なぜ人生に安らぎがないのか
私の何が悪いのか
私は周りの人を幸せにできないのか
とてもとても苦しくてつらいです

2023年9月7日 11:17

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人生は一生自他のご教導

人が持つべき心は「心をより豊かにしよう」、そうなろうとする心です。
人は人の持つその心が自分の心でありながらも、その心を幸せ、豊かにする力がない、作用、方法、エネルギーがない。そんな悲しく貧しいことはないと思いませんか?
たとえば、チョー✨立派なサイフがあるのに、中身はカラッポ。それでは立派な残念なサイフです。あるいは、チョー✨立派な水槽があるのに中に魚がいない。それも立派な残念な水槽です。あくまで喩えです。
あなたもおこさんたちもチョー✨立派な人間、立派な命ならばこそ、心を豊かにするべきです。仏教というものは人間は生まれたままでは自分の心の働きがそのまんまなので、その心そのもの自体をより高めようというアクションでもあるのです。
土地を沢山持っていても、雑草ボウボウでは土地の持ち腐れ。もちろん、森林や山はそれはそれで立派なことですが。
ですが、人間の心というものはちゃんと豊かさを求めれば向上できます。
物質や経済だけ高めようとしても、それは人類の歴史がすでに実証済みです。
エゴい人間が自分のエゴだけを高めようとするだけになる。
だからこそ、人間というものそのものを大きく見極めるのです。
人間にはそれぞれの命があり、それぞれの欲望があり、それぞれの生き方、考え方、価値観、人生観、性格、ビジョン、受け止め方がある。
ですが、それらを統治するのは心。脳。
その心を高める、脳のアクションが不具合がないように生きる。
たとえお子さんがそのお金を手にしたとしても、それも人間の真実のサガ。
あるいは、留守中にプロ泥棒が入り込んでそれだけ持ち去ったのかもしれません。おばあちゃんが忘れちゃったのかもしれません。それを疑えばあなたも心がけがれる、濁る。人間不信になる。ならばこそ「ご教導」「より豊かな心を目指してあゆんでいこう」とする精神を爆起動させるのです。私ならばそうします。あ、アタシ、なにやってんだろ!(# ゚Д゚)と自分をペチペチします。
貧しい国で心が渇いている人が目の前に食事があればつい手を伸ばすのは盗みの心理ではなく、単に心が餓えているということ。
ご家庭内でもいろいろ山あり谷ありでお辛かったのはあなただけではなく、お子さんも、みんなが。
一度、みんな傷ついたよね、みんな大変な思いをしたよね、という弱者の立場で反省、見つめなおし、立て直しをすることをお勧めいたします。

2023年9月8日 8:34
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼が遅れて申し訳ありません
またたくさんのアドバイスありがとうございました

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