自分の器
私は、精神疾患です。
幼少期に父と兄に暴力を受けて育った為か空気感で『人の気分』や『何を求めているか』が、何となく解ってしまいます。
人のイヤな部分は簡単に感じるけれど、良い部分や人の本質は自ら踏み込まないと感じることは難しいことが多いと思っています。
肌に合わないだけで判断しては勿体無いと思っていて自分の可能性を縮めることと思っています。
空気を読む事を武器にして世の中を生きてきました。でも、自分の思想や理想の受け皿となる器と本来の自分の器との隔たりが異なり、このような病気を持ってしまったのかな?と思います。
私は、出来上がった自分の理念とどう向き合えば良いかアドバイスお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
様々な価値観に出会い
拝読させていただきました。今迄のご経験からご自分が形成されてご自分の理念や価値観が作られてきたことはとても大切なことですよね。それによって自分の生き方や周りとの関係の保ち方も作られて日々の生活が安定なさっておられることと思いますので。
あなたの中ででも今迄の生き方でいいのか?という疑問もあるでしょうね。私も経験上本当にこのような生き方で良いのか?と自問自答しております。
どの様な方であっても完全円満な人格が形成されているとはなかなか言い難ですよね。ですから私は常に自分の中で価値観も周りとの関係性も自分の心をも自問自答していくことが正しい姿ではないかと思います。
少しずつ見直しながら修正を加えていくこと、新たな価値観に出会い自分自身を見直しながら生きていくこと、そういった積み重ねが人生の幅というか器を広げてくれることと思います。
せっかくの機会です。あなたも様々な価値観に出会い刺激を受けてそしてご自分の器をどうか広げていただきたいと思います。
価値観の器をぶち壊す経験
こんにちは。緇川(くろかわ)と申します。
幼少期の経験は「三つ子の魂、百まで」と言うように、後々まで影響を及ぼすものです。けれども、それ以上の衝撃的経験によって、人格は左右されるものでもあります。
私も昔は嫌な子供だったと思います。大人の顔色を伺ってばかりで、ませていて生意気で、大きくなっても他人を平気で陥れてしまうような人間でした。気が合わなくなると、昨日までは普通に話せた人とも急に話せなくなるような性格でした。
そんな中で、私は祖父の死をきっかけに浄土真宗に出遇いました。元々、お寺に生まれ育った身ですが、本当の意味で仏教に遇わせてもらったのです。
それでも相変わらず嫌な人間だった事は変わりませんでしたが、浄土真宗に遇ってからの様々な経験が徐々に私を変えてくれたような気がします。
「大人になった」と言えば簡単ですが、私は今でも大人に憧れる程子供っぽい所もあります(-_-;)
そんな自分自身の有り様を、阿弥陀佛のお慈悲を通して日々反省すると共に、仏様に感謝のお念仏を申し上げる教えに出遇えた事、これが私の衝撃的な経験でした。
ぶち壊すと題しましたが、今までの価値観も大切な経験として、しっかり私の中で働いています。価値観の器が拡がったのかもしれませんね。
仏教は自分を見つめる教えです。
体調が落ち着きましたら、仏教の様々な教えに出遇ってみてはいかがでしょうか?
また、仏教以外にも色々な事を通して学べると思います。自分の理念を客観的に考え直すのも、良い経験になりますよ!
南無阿弥陀仏
質問者からのお礼
アドバイスありがとうございました。
ずっと、アドバイスを観ながら考えていました。
自分の生き方が、これからどんな方向へ向くのか?自分自身、新たなステージへ行けるのか?
考える事の大切さを教えて頂けました。ありがとうございました。