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存在価値

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心がいきなり落ちます。心が落ちたとき、私にない私がうまく出来ない魅力的なかたを見て、私は私の存在価値を疑います。

世に私の存在価値を出そうと努力するたび、結果が出ないと無意味な気がして、心が落ちます。

無でいること、欲を出さないでいることの方が人は幸せな気がします。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

存在価値や結果を求めるポイントを誤解されておられます

ものを口に入れないと舌の上に味は生じません。
同じように何かを始める前から好ましくない結果をあれこれ想定して何もせんという事は、食べる前から味を決めてかかって目の前のシェフをしょんぼりさせてしまうことに等しいです。
シェフとはこの身心。6感です。
好ましくない結果など100のうちいくつかはつきもの。仏法を学べばそれも無くなります。
自分にとってという「ご都合」が無くなるからです。
咲いた花や果実が実る瞬間だけを結果だと思っちゃだめです。
それよりも今日、どれだけ種をまけたかどうか。
どれだけ行いを尽くせたか。その小さな結果に喜びを見出すべきです。
私はたった今、廊下掃除を終えて休憩ながらに回答しています。
100人幸せにした、より、今日一人を笑顔に出来たか。
目の前を見てください。それがすべての結果でジ・エンドしょうか?
いいや。( ˘ω˘ )それは今後の結果の原因にもなり、縁・作用・働きとなるものです。
あなたは今、どうせ、だって、でも、だけど…と何もやらないという縁、作用を加えている。だから結果もさほど実りの無いものになる。何もしなければ結果という文字通り、実を結ぶ、果が実ることはありません。
TVをつけたら「モニタリング」に石原さとみさんが出ていました。
町の一般の方に石原さとみさんに対する印象や評価を聞いていました。裏でその生の声を聞きながら石原さとみさんが「嬉しい♡」と喜んでおられました。そこに面白いことを感じました。
誰もがうらやむ容姿を持っているからといってそれで満足なのか?といえば人間必ずしもそうではないという事。
美人度で言えば人によっては石原さとみさんよりも美人だといわれる人も居ます。石原さとみさんは誰もがうらやむ要素をもっています。
ですが、そこでご本人に真の満足がない限り、人間の真の満足ではない。
お分かりでしょうか。
才能・容姿・能力であってもそれだけでは直接的な幸せにつながらないことを悟っていただきたいのです。
よーく自分を振り返ってみてください。
容姿や持っているもので人は幸せにはなりません。
私は今、人生史上最高に美しいく廊下掃除をしただけで大変幸せです。本当ですよ、これ。
やる前から、どうせ、と評価せずに、やってから実感として感じてみてください。
人生は評価ではなく、自分をフルに用いて自分自身に本当に満足がいくかどうかです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

結果がすべてではありません

拝読させて頂きました。その様に感じ自分の行いや存在価値がないのではと不安にかれらることはありますね。あなたのお気持ちをお察し申し上げます。
人は自分のことはよくわかりません。鏡を見なければ自分の姿も見えません。まして自分の行いについて周りは判断しますがそれは二の次さんの次です。
世の中結果がすべてのような風潮がありますがそれはそのもの本来の意味や役割を知らずに出している浅はかな答えです。まして自分だけが努力してその結果につながったわけではありません。様々なつながりの中や積み重ねられたことから導き出された結果ですし、そこからまた新たなものごとにつながっていくわけです。
自分自分になってしまったらそれこそ愚かな考えです。自分の努力や行いも一要素にすぎないのですからね。ものごとデジタルの0と1だけではありません。様々なプラスマイナスや相乗効果によって成り立っています。どうぞ決して卑下されずに自暴自棄になられずに投げ出すようなことはなさらないでくださいね。
あなたはまわりの方々と共に存在しそして共に力を合わせてものごとに取り組み、そしてそのご縁の中で生かされていらっしゃるのですから。
どうぞご自分も周りもそしてこのひと時ひと時を大切になさってくださいね。あなたの未来がこれからもさらに豊かに開けて参ります様に心からお祈りさせて頂きます。そしてかげながら応援させていただきますね。

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おきもち

個別相談可能
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラーメンが有名な処です。)これからも皆様のご質問に対して誠心誠意回答させて頂きたいと存じます。まだまだ修行中の身ですので至らぬ点あろうかとは存じますが共に精進して参りましょうね。お寺にもお気軽に遊びに来てください。
ご相談は朝から午後5時まで受け付けております。 人間関係や恋愛のお悩み、自殺願望、大切な方の死に直面した苦しみなど、どんな内容でも構いません。一人で抱え込まずに、ぜひお辛いお気持ちを吐き出してください。 仏様や神様、ご先祖様は、いつもあなたを見守り、聞いてくださっています。あなたが少しでも穏やかな気持ちになれるお手伝いをさせていただきます。

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