相手を信用する生き方
相手を信用できるようになりたいです。
大人しそうな外見やわがままな性格のせいか、昔から人に好かれませんでした。そのためか、相手を信用できるか疑ってしまい、その人の性格を値踏みしてしまいます。
信用していない相手には、思いやりを持つことができません。(優しくしても返ってこないとわかっているため。相手が私のことをなんとも思っていないと知っているから。)優しさはしてあげるではなく、したいからするものだと分かってはいます。
でも、自己防衛でしょという気持ちが強いです。
兄弟が多く、中間子で長女でも長男でもない自分は甘やかされなかったという意識も強いです。親から思いやりを持てと言われてきました。
二十歳を超えて、親が何を考えて言ってきたのかもわかるようになってきました。でも私の気持ちはどこにあるんだろうと。
人に合わせるために自分の性格を変えようとしてきました。相手のことを考えて、考えてきました。自分の気持ちも考えました。
でも、結局元の性格がいい人にはかないません。
人と関わりたいのに、信用できません。自分も出せません。どうやって生きていったらいいですか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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本当に信用できるもの
もく様はじめまして、ご相談拝見しました。
相手を信用する、難しい事ですよね。
相手を信用できないという自分が立っているのはどういう立場でしょうか。それは自分を是とし、相手を見定めようとする立場です。
しかし仏教的にいえば自分ほど頼りにならないものはありません。相手を見定めようとするこちらの方こそ常に定まる事のない実に頼りない存在です。あっちにいったり、こっちにいったり、ふらふらとおぼつかなく、それで勝手に苦しんでいます。
そんな私であるならば、ちょっと周りの人を頼ってみようかしらと思いませんか。
ここで大切なのは頼るのと、依存する、あるいはあてにするということは違うということです。
私がダメだからと相手に全部依存したら相手が疲れてしまいますね。それで相手が折れてしまったら今度はやっぱりこの相手もダメだったと落胆する。それって結局自分を是とする立場です。
私が頼りにならない存在だと知ることができれば、相手もまたそうであると知ることが出来ます。
であるならば本当に頼りにするのは何か?信用できるものは何か?
ぶれないものです。真実です。真実を知らせてくれる法(教え)です。私たちにとってそれは仏法です。
仏法に照らされたとき、私も相手も「ともに」いるという世界が開けます。頼りにならない者同士が頼り合って生かさせていただいている。
一人じゃなんにもできない私がたくさんのご縁で奇跡的に存在している。だから私は尊い。
相手も同じ。そんな相手もやっぱり尊い。
そんな私と相手が今ともにいる。これが尊い。であるならば交わってみよう。心を開いてみよう。
それでもやっぱり信用できないなあと思う時、またあなたは自分のものさしで相手を値踏みしているぞと教えくださるのが仏法です。その繰り返しですよ。
相手のことを考えているようで実は自分のことばかり。
相手を信用できないといい、信用している自分がじつはあてにならない。
そんな自分も相手も今ともにある世界、どう生きますか。
私なら誰かと関わって生きたいかな。
質問者からのお礼
回答、ありがとうございました。
まだまだ生き方に自信は持てないけれど、回答してくださった文を読んで、自分の中で考えていきたいと思います。ブレない
回答、ありがとうございました。
まだまだ生き方に自信は持てないけれど、回答してくださった文を読んで、自分の中で考えていきたいと思います。
ブレない自分も見つけたいです。
お体に気をつけてお過ごしください。ありがとうございました!
コメント送信の間違い失礼しました。またご縁があればよろしくお願いいたします。