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いつもお世話になっています。

私は人口3000人程の小さい町で公立保育士(町の保育士)をしていて、働いて3年目になります。 保育所は一つしかなく、職員同士は上辺は仲が良いように見えますが派閥があり裏ではあることないこと噂されたり未熟な点は裏でコソコソと言われています。年齢も近い人がおらず悩みも迂闊に相談できません。

私は現在町の役場の職員兼、副住職である方とお付き合いをしています。あと2~3年経ったら結婚も考えています。そこで、彼はストレスを抱えている様子を見て「子どももゆくゆくは欲しいから結婚を機に辞めたらどうかな」と提案して頂きました。私はストレスをためてしまいやすく蕁麻疹が出たり胃が痛くなったり眠れなくなるため身体を壊す前には辞めようと考えています。人出も少ないため産休育休も取りにくいです、、 募集しても人が来ない保育所で結婚退職をしたらまた何か誹謗中傷をされるのではないかと不安です。考えすぎでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人の評価の為に生きてはいけない

人からどう思われようが、あなたの人生。
そして「人からこう思われるのではないか」と、あなたが勝手に恐れているだけです。
相手に恐怖しているのではなく、自分に恐怖していることを悟ってください。
イイ子ちゃん芝居は今日を限りに封印しましょう。
人間は相手や相手の評価などではなく、自分の思いにおびえるのです。
「相手がこう思うんじゃないかな」って思い起こしてるの、それ、自分の思いでしょう?
これがワカランと仏教は人ごとよそ事、他人事です。
相手を変えたってしょうがない。自分の生き方を変えるんだよ?
退職していい。転職していい。そうすればあなたのポストに就ける、就きたい人の可能性を広げる事になるのです。やめてくれるなは事務所の都合です。良くして頂いたのでしたら丁重に奉公なさって、やめないという事とは別にお返しすればよいのです。あなたにも様々な事情があるのだから。
役職、ポストは色々な方にやっていただくことで現場が活性化されることもあります。
不在なら不在で活性化される部分もあります。
自分の人生、自分で決めましょう。
ネガティブな所にだけ焦点を当てず、それによって自由を得る、子育てに専念できる、他の人にチャンスを与えられる、という可能性に目を向けましょう。
アナタのストレスの原因は、思い込み過ぎる所です。
空想、妄想、マイワールドで判断しない事。
現実、事実、その時、その場で、生きて、そこで判断するようにしましょう。 
明日や未来の、いまだ来らぬことを今からどうこう騒いでもどうにもならぬものです。
頭の中の想像の世界と、現実の世界とのギャップ。
アナタが真の今の現実を見ずして、頭の中の事を最優先させているようですが、リアルタイムの現実を最優先とした生き方をすれば、ストレスや、蕁麻疹やらも出なくなりましょう。
アナタの課題は、情報 です。
情報に振り回されてきたのでしょう。
そして何より自分の脳内情報に振り回されてきたのではないでしょうか。
風に姿かたちはありません。
風評、風、ひとのうわさ、評価は風です。
風とは情報です。風なんか相手にしたって実ではないのです。
あなたの中の風を騒ぎ立てないように過ごす。それがあなたを向上させ、安楽に導く生き方であると私は感じています。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下覚元様 本当ですね、何よりも自分の人生ですね。悔いの残らない人生だったと思えるよう努めます!勇気を頂きました。ありがとうございました
(^_^)

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