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私に暴言を吐いた元彼を忘れられません

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昨年度の冬まで付き合っていた人がいました。1年ほどの交際期間です。

付き合っているときには
「君にはひとつも良いところがない」
「君と付き合っていてもメリットがない」
と言われました(後から謝られましたが)。

彼から別れを切り出された際、私がすがり付いた結果
「君の思想についていけない」
「しつこい。殺すぞ」
「金輪際僕に関わるな。気持ち悪い」
「つらかったんだね。可哀想だね。君は悲劇のヒロインそのものだ」
など言われました。

今思い返しても、厳しくつらい言葉が多いように思います。今の私には、素直で優しい彼氏がいます。それでも、元彼との思い出の地を通ると胸が痛くなります。

元彼からは縁を切られましたし、一刻も早く忘れたいのです。
私自身心残りなのは、彼が私の言い分をろくに聞いてくれず誤解で私に怒りを感じているところですが、今となっては伝えようもありません。
どうすれば忘れられるのでしょう。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

ドSだった。(笑)

心の傷をいやすにはジョークも大切です。
よってこう考えましょう。
単に「超ド級のSだった」と。
ドS人間からするとそれは日常会話の一つなのです。暴言という自覚すらなく、むしろ愛であったりします。
「オメーは、オレから言わせるとまるでなってねぇ。オレが一人前の女にしてやる。」くらいの上から目線なだけかもしれません。女子ウケアプリにもそういうS系キャラが出てくるでしょう。アプリならばイケメンキャラなので暴言も許されてしまうのですが、それを言うに値しない男性ですとテメーに言われたくねぇ、ムカつく暴言にしかならんのでしょう。
よって、単にドSだった、と考えてみましょう。静かなるドSはいるものです。
だからこそ分かれ て正解だったと考えれば、その傷は桃屋の和らぎメンマくらいやわらぎます。チョイ辛いけど。
磁石でもSとSは反発し合うのです。
少女漫画やドラマ、主人公が上から目線キャラの物語があるでしょう。それの実写版をアタシは体験したのだワ、と思って貴重な経験として思い出ボックスの一番深い所に収納しておくかごみ箱に捨てましょう。
彼は彼のドS言葉に快感を感じる女子を見つけるべく新たなる荒野へ旅だっていることでしょう。
どのみち合わなかったのですから、相手にする必要はありません。
坐禅で用いる警策も用いる人が用いたり、受ける人が受けると暴力にすらなります。
言葉も画像も情報も毒にも薬にもなる。
今彼と付き合っていく女子の中には彼のドS言葉がたまらない人もいます。布施してあげたと思いましょう。
言葉も画像も情報も毒にも薬にもなる。
あなたは、いつまでも毒にせず、今日かぎりで教訓として、薬として、やさしい言葉で今の彼と幸せになって下さい。♡

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

安穏寺 丹下覚元様
ありがとうございます。私自身少し夢見がちなところがあるため、そのようなドSの男性に惹かれてしまったのかもしれません(笑)
傷もデスソースから辛口カレー程度まで和らいできたところですので、継続して和らぎメンマ

を目指そうと思います。
ありがとうございました。

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