自分の駄目な部分を認めたい
はじめまして。
わたしは友人がいなくても大丈夫だとずっと思っていたのですが、どうやらそうではなかったようで、この歳になってとてもさびしく、また焦っています。
他人の友人と遊んだ話などをみると、とてもうらやましくなってしまいます。
人に相談すると、
「自分から積極的にいかないのが悪い」
「他人に興味を持たないのが悪い」
といわれて、かと思えば
「無理をして友人になっても仕方ない」
「頑張ってなるものでもない」
ともいわれ、消極的で他人に話しかけることが苦手な自分はどうしたらいいのかと、結局楽に逃げ努力を怠って投げ出してしまいます。
大学卒業後5年ほど就職もバイトもせずに引きこもっていたら、小さいころからの友人とも連絡がとりづらくなってしまいました。
もともと、人に対して受身でマメではなかったことと、社会人経験がないことやもろもろに劣等感を感じてしまい、身動きが取れなくなってしまいました。後悔しています。
現在の仕事はほぼ自宅作業で、他人と知り合う機会はゼロです。
けれどそれもさびしく、趣味を同じくする人とSNSなどで親しくなれたらと思い挑戦してみましたがやはりうまくいかず、後から参加された方がより受け入れられ親しくなっているのを見ては努力もしない自分を差し置いて嫉妬をしてしまいます。
結局自分には自己愛しかない、他人に好かれる価値も才能も実力もない人間なんだと知りました。知ってはいましたが納得ができず、いまでもたぶんできていません。恥ずかしいことですが…どうして自分は好かれないのだろう、受け入れてもらえないのだろう、誰に見向きもされないのだろうと思ってしまいます。努力もしないくせに。
どうしたら傲慢さを捨て自分がそういう人間なんだと納得できるようになるでしょうか。
他人と仲良くなることを諦めることができるでしょうか。
また、自分が本当に一人で大丈夫だったらつまらない嫉妬もせず、誰にも認められなくても、自分のしたいことをしてそれで完結できるのにと思います。
どういう気持ちでいたら一人でも大丈夫になれますか。
さびしいと思う気持ちや嫉妬をいなすことができるのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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自分自身を見捨てても、あなたを見捨てない人がいる
私も自己嫌悪が強い人間です。
今でもそうです。
せっかく入った私立中学は、たった一年ちょうどしか行けず、その後不登校でした。
高校も定時制に行ったので、当時の友達ともほとんど連絡をとれません。
せっかく医学部に行ったのに、しかも五年まで進級したのに、中退してしまいました。
その後は、仕事も長続きせず、友達もどんどん減っていきました。
ついには、仕事もできなくなり、ひきこもってしまい、それが何年も続きました。
あなたがいうように、人間は、「自分が正しい」という感情から逃れることはできません。
自分で、自分のことを「ダメだな」と思う気持ち。
つまりは自己嫌悪も、「自分が正しい」という感情があるからこそ起こります。
自分のなかで、「正しい自分」という基準があって、それに見合わない部分は、「ダメな自分」として、自分で、自分をダメだと見捨ててしまうのです。
でも、それでも大丈夫です。
なぜなら、私自身が、私を見捨ててしまっても、私を決して見捨てない人が必ず存在するからです。
あなたが、あなた自身を見捨ててしまっても、あなたのことを見捨てない人が必ず存在するからです。
ダメな自分を見捨ててしまっても大丈夫です。
あなたを見捨てない人たちは、必ず存在しますから。
私がこのことを実感したのは、真宗大谷派の僧侶養成学校(大谷専修学院)での生活を通してでした。
私が、どんなに自分自身を軽蔑しても。
学院に不満を言っても。
授業を休んでも。
周りの友人や先生たちを軽蔑しようとも。
私が、どんなに自分自身を見捨ててしまおうとも。
学院の院長も、班の担任の先生も。
同室、同じ班の友人たちも。
決して私を見捨てなかったからです。
とことん、私の話を聞いてくれて、とことん、私のことを大切にしてくれたからです。
とことん、私のことを尊敬してくれたからです。
あなたにも、そういう存在が必ず存在します。
自分自身を見捨てても、「必ずあなたを救う」というはたらきのことを、浄土真宗では「仮に」「阿弥陀さん」とか、「本願力」と呼んでいます。
そして、そのはたらきは、必ず、自分と関わりのある、人間の言葉、行動として伝えられます。
われわれは、「必ずあなたを見捨てない」という存在にすでに、守られています。
でも、われわれは、そのことに気がつかないのです。
質問者からのお礼
このような要領を得ない文、さらに幼稚な質問に回答してくださってありがとうございました。
わたしを見捨てない存在が、現在もこれから先も実在する気は全然しないし、逆に自分が誰かの中に存在するとも思えないけど、この世のどこかには自分を好きになってくれる人がいるかもしれない、死ぬまで会えないかもしれないけどいるかもしれない、と思い込んで生活できたらすこしは楽になるかもしれないと思いました。
回答をいただけるとは思っていなかったので、とてもうれしかったです。
ありがとうございました。