どんな自分も受け入れるには回答受付中
度々お世話になっています。何度かの相談後から「今ここ」を意識する、数分からの瞑想など、少しずつ練習を始めて相談前より嫌な妄想や侵入思考に囚われる時間が段々と少なくなってきました。
この事は自身にとっても嬉しい事ではあるのですが、同時に「本心でなくとも人として本当に最低すぎる愚かな事を考えてしまった、思ってしまった自分は今ある幸せを受け取って良いのだろうか」という考えや罪悪感が心の片隅にずっとあり、素直に今ある小さな幸せを感じようにも感じきれない時があります。
そこには自分が自分を許せず、こんな自分は自分じゃないと認めていない部分や、自信の無さ
自分が大事にしている事(どんな理由であれ人や生命を傷つけてはならない。それは言葉や思いであっても)を裏切られた怒りと悲しみが強くあり
又、人間誰しも良い部分と悪い部分があってバランスが大事と分かりつつも、常に清廉潔白でありたいという気持ちが強すぎるのだと思います。
そして、まだまだ「思考=自分」の考えが根深く残っており、思いをコントロールしたいという無理難題な気持ちも少なからずあると思います…。
でも、ずっと同じ所で堂々巡りの中、悩んで苦しんで生きていたくない。少しずつではあるけど、以前より前に進めているのだから進めている事実を見ていたい。今ある幸せをちゃんと感じたい。
そのためには、「どんな自分も受け入れる」事が大事だと分かりつつも中々難しく、またそこで悩んでしまいます。
どうすれば本当の意味で自分を受け入れる事ができるでしょうか。
毎度まとまりがなく、長々と申し訳ございません。
お坊さんからの回答 2件
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
相談ありがとうございます。あなたがご自身の心と真摯に向き合い、言葉を選びながら丁寧に歩まれていることが、文章の一つ一つからひしひしと伝わってきました。そしてその歩みこそが、仏教的に見てもとても尊く、かけがえのない“修行”そのものだと、私は思います。
あなたのように「こんな思いをしてしまった」「こんな自分でいいのか」と自らを省みて葛藤し、罪悪感すら抱けるということは、すでに“本当はどうありたいか”という誠実な心を、あなたが持っているという証だと思います。
しかし、あなたの「最低なことを思ってしまった自分が幸せを受け取っていいのか」という問いかけの裏には、「清らかでありたい」「誰かを傷つけたくない」という強く優しい願いがあることに、どうか気づいていただきたいと思います。
「思考=自分」という考えが、まだ根深く残っていると書かれていましたが、これは仏教においてもまさに重要なポイントです。仏教では、「心に起こる思い」は、雲のように湧いては消えていくものと捉えます。
つまり、あなたが思ってしまうことは、「あなたの心に一時的に現れた風」や「過去の縁によって生まれた波」のようなものであって、それだけであなた自身を全否定する理由にはならないという事です。
「どんな自分も受け入れる」というのは、イメージとしては “赦す”ことや “肯定”と近いかもしれませんが、仏教的にはもう少し柔らかく、こうも捉えられます。
「ああ、こんな気持ちがあったんだな」
「私は、こういう時に苦しくなるんだな」
「それほど、大切にしたい価値観があるんだな」
という風に、「見つめてあげること」そのものが、“受け入れる”という姿勢なのです。
自分を許さなきゃ、前に進めない。そう思うと、苦しさが増してしまうこともあります。だからこそ「許そうとしなくていい」「ただ、その感情に気づいてあげるだけでいい」と、まずは肩の力を抜いてみてください。
そして、何か良くない事が思い浮かんだら「私は今〇〇と感じたんだな」とその気持ちを良い悪いの判断はせずに見つめてみてください。焦らず、否定せず、あなたの心が揺れながらも前を向こうとしている姿を、「これでいいんだ」と見守ってもらいたいと思います。
どうか今日の小さな平安を、大切に感じてください。その一歩一歩の先に、やさしい光が差していると私は思います。
我が身の程を見つめ受け止めて
拝読させて頂きました。
あなたが様々なことや思い巡らす自分のことを受け入れられず、とっても悩み苦しんでおられるのですね。あなたが真摯にご自分にお向き合いなさっておられることを読ませて頂きました。あなたのお気持ち心よりお察しします。
私達の心の中は一瞬一瞬様々な思いが常に移り変わり考えも意見も感じることも変わっているのです。私達自身がそのようにとらえどころのない自分であることを知ることかと思います。つまり善くもなれば悪くもなる自分がいるのです。
であればあるほど自分が生きる中で様々なことや人々と出会い自ら感じて体験していく中で確認していくことが大切だと思います。
私ごとで申し訳ございませんが、私は昨日広島市原爆戦没者慰霊式•平和祈念式に参列させて頂きました。沢山の方々の様々な深い悲しみと苦しみを伺いました。改めて二度と争い・戦争してはいけない、二度と核兵器を使ってはならない、全ての人がお互いのことを思いやり尊重し理解し合い生きることの大切さを教えて頂き改めて心に刻みました。
世の中はいつの間にか自分達ファースト・優先して他者を悪く言い争いもじさない流れができています。
それらの考えや主張全てとは申し上げませんが、いつしか我欲によって他者をおとしめて傷つけて殺しかねない思いが渦巻いてくるように感じます。そして誰もが争い合い公然と戦争し合い奪い合い殺し合う大惨事や大罪を犯しかねないと痛切に思います。
そのような悪意や悪行を犯しかねない我が身であることを改めて自戒し確認していくことはとても大切かと思います。
あなたはいかがでしょう。ぜひ様々な方々の思いや悲しみや苦しみに耳を傾けて分かち合い、自らの人生でどう向き合い生きていくことが善いか思い巡らして下さいね。
あなたがこれからの未来を大切な方々と一緒にお互いを尊重し思いやり、皆さんと心から幸せに生きることできますように切に仏様や神様やご先祖様にお祈りさせて頂きます。至心合掌
そしてあなたを心より応援させて頂きます。m(_ _)m
だからこそ日々確認し合っていくことが必要だと思います。
質問者からのお礼
釋兼高さま
ひとつひとつ丁寧にお答えくださり、ありがとうございます。暖かく優しいお返事に涙がこぼれました。
「受け入れる」事に対して何処か硬く感じてしまっていた部分があったので、仏教から観た「ただその感情に気づいてあげるだけで良い」「見つめてあげる」という俯瞰的な姿勢から自身を少しずつ受け入れていきたいと思いました。
そして、自分が本当はどうありたいか。そこに焦点を合わせながら少しずつ前を見て歩んで行きたいと思います。