他人の振る舞いを気にする性格を治したいです
私は他人の振る舞いをかなり気にするタイプです。
それに加え神経質な性格で、他人が気にしないようなことをかなり気にしてしまいます。
私自身、礼儀やマナーを重んじる性格です。
全てのことを把握しているわけではないので強くは言えないのですが、他人の振る舞いにイライラすることが多いです。
例えば同い年の友人が年上の方にくだけた敬語(まじすか?のような言葉)を使っているとドン引きします。
それを許してくれるような相手だと分かっているからやっているのかと思いますが、私としては信じられないことです。
他にも目上の方の話を聞いているときに足を組む(相手から見えません)行為も許せません。
また、店員さんにタメ語を使ったりする人も嫌いです。
他人の無礼な行為自体、私には関係ないのに自分のことのようにイライラしてしまいます。
そういったこともあり食事など楽しんで終わったことがない時もありました。
どうしたら他人のことを気にせずにいられるのでしょうか。
よく気にしなければいいと言われるのですが、私はそんなことできません…。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
私の目はどこを向いているのか
なん様はじめまして、ご相談拝見しました。
まずはお釈迦様の言葉を
「他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。」(ダンマパダ50/中村元訳)
「人の振り見て我が振り直せ」とは言いますが、他人の過失は目につきやすいもの。もしかしたら自分もそういったことがあるかもしれないと自らを戒めるくらいが調度よいのかもしれませんね。
しかしどうでしょう。気にするなと言われても気になってしまうのですよね。自分だけを見ろといわれても他人ばかりが目に入るのも事実でしょう。私たちの目は外を向いていますからね。
だからこそ、その目を内に向けなさいというのが仏教と言ってもよいかもしれません。仏教は内観道です。
自らの身の事実に目を避けず深く見つめた時、
ついつい過失の責任を他人に転化してしまう私
言い訳をしてしまう私
失敗をしても周りに許されていた私
周りを見下していても、実はその周りに支えられていた私
が見えてくるかもしれません。
それでも私の目で見る私の姿は偽りの私であることが多いです。自己反省なんてそんなもの。私たちは自分に優しいんですね。
ですから私たち僧侶そして仏教徒は法(お釈迦様の教え)の目で私の姿を見せていただきます。
見たくない自分、隠したい自分がさらけだされるのが仏教なんですね。
なん様も是非今一度自らの姿を深く見つめてみてください。
…それでもだめなら、逆にとことん他人を気にしてみる。気にするだけじゃなく口も出してみる。というのも荒療治ですが一つの手かもしれません。
思い通りにはならないなあ、どうにもならないことを気にしてもしょうがないなあと実感できるかもしれませんよ(トラブル注意ですが)。
質問者からのお礼
吉武さん回答ありがとうございました。
自分に甘く、他人に厳しい面があると感じ、もう一度自分の考えを改めてみようと思いました。
お釈迦様のお言葉を、教訓にしたいと思います。本当にありがとうございました。