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禅僧は恋をしたときどうなるのですか?

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この半年間、ずっと思い悩みここのサイトにたどりつきました。不躾な質問で恐縮ではございますがご回答頂けましたら幸いでございます。私が現在、恋をしてる相手は今はヨーガの先生なのですが、ヨーガの先生になる前の2年間は禅僧をしてると仰ってました(今名乗ってる名前もそれらしき名前で、籍はまだあるとのこと)禅僧をやめたあとインドに行き1年間、瞑想やヨーガの修行をしてきたとのことで丁度、インドから帰国してきて日本でヨーガの先生を始めたころ彼に出会いました。恋をしたきっかけというのは彼からの視線を感じたことが始まりです。他の生徒さんよりも私に触れる回数が多かったり、なんとなく彼からの好意らしきものを感じます。もちろん自意識過剰かなと思ったりもしましたが、冷静にみても少し自惚れてもいいのかなという行動が彼の行動や視線から感じられます。(例えば、レッスンの最中に思い余ったようにそっと手を握ったりとか、)それから私もなんとなく意識し始めて改めて彼の今までの生き方や彼の人柄を特別なものに感じるようになりました。ただ、このような状況がもう半年も続いており全然前に進みません。やはり彼の気持ちは私の自惚れなのでしょうか?それとも禅僧のように修行を積まれてる方は女性としてではなく人間愛てきに思ってくれているのでしょうか?お坊さんも恋をしたとき、普通の男性と同じようにアプローチするのでしょうか?それともまだ修行の身では恋などできないなどというような心理が働くのでしょうか?彼は菜食主義のようなので他の男性のように今度お食事でもご一緒にというような誘い方もできません。長文大変失礼いたしました。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

禅僧ではなくて、普通のオトコ、でしょ?

キャー、あやしいわねぇ。
同じような手口でみんなに色目使ってるんじゃないっすか?(^<^)
って、疑ってみることが大事ですよ?一応あなたの為に心配して申し上げますので、夢を壊してしまったら申し訳ありません。
だって菜食主義で草食系男子かと思いきや、僧職系アピールしつつ、禅を捨てたとか還俗してヨガスタジオ開いてるのに籍だけ残してるってことまでペラペラ吹聴して色目ライト、チカチカ全開のイルミネーション系=装飾系の男子で+おさわり系=肉食系男子なんざましょ?
ちょ、、、(´・ω・`)同じ禅僧扱いはカンベンっすわ。
おまけにヨーガレッスン中に思わせぶりな行為。禅や常識にもヨーガないのでしょう。山田君座布団3枚。
まぁ、用心しながら絶食系(プラトニックの意)デートで慎重なお付き合いを。
あなたにとっては恋であっても、彼にとっては遊びカモしれまへん。ラベルの下になにが隠されているのかを見抜くことです。
口でも皆美味いこと言えるものですから、僧職系の装飾ラベルの下にある本心を見抜くまでご用心。本当に大乗な人ならいいんじゃないでしょうか。それまで入念なリサーチをお勧めします。
まぁ、レッスン中、行じている時には男にも女にも色恋沙汰にも用が無くなるのがあなた自身も本当にヨーガを行ずるという事では?
「心を死滅させることがヨーガである」 ヨーガ・スートラ

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お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございます。

そうですよね、私がもし友人からこのような話を聞いたら、ただの怪しい人にしか聞こえません。
仰ることとてもよくわかります。私も今までの恋愛経験から色んな男性をみてきましから(笑)

でも、本当に言って欲しかった言葉を言って頂けたような気がします。
やはり、彼も禅僧である前にただの男性ですからね。

それを言ってくれたので心が軽くなりました。
ありがとうございます。

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