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今までの嫌な自分を受け入れて、生き直すことは出来ますか

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初めてお便りさせていただきます。長文になります。

自分が嫌いで、嫌で仕方がありません。嫌い嫌いと言いながら、本当は自分だけが可愛くてそうしているのではないか、と思う事もあります。

小さな頃から今まで、人にも物にも恵まれた環境にある筈なのに、それらに不満ばかりを漏らし感謝できずにいました。
世間体を気にし、外面は良く調子が良いのですが、内面は本当にだらしがなくとても子供を叱れるような生活ではありません。生活習慣、金銭感覚、人間関係、仕事など全てにおいてです。家の中も私の物で溢れており、整理整頓が全くなっていません。

自分の歪んだ性格を、生い立ちや育った環境のせいにしたり、夫との不仲は夫の性格や女関係の責任にし、体が疲れ休みたい時には持病や鬱のせいにし、その通院やカウンセリング、ストレス発散のためと自分の為だけにお金を使う。
今の夫との修復不可能な状態にまでし、娘にも怒りだけを吐き出してしまい温かく受け入れていない。

まだまだ本当に嫌と言う言葉では言い表せない程の人間です。自分が本当に大っ嫌いで仕方がないです。この自分をどうしたら良いのかもわかりません。悔しくて悲しくてたまりません。

子供との関係を再構築する為に、幼い精神年齢から成長する為、新しい人生を生きて行く為に、前を向いて生きていきたいです。
こんな私ですが、今までの自分を受け入れるというのは、むしの良い話でしょうか。
これからの人生を考えても良いのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

原因をは、毎度繰り返している「ある癖」の一点に絞る。

あなたが自分で自分を愛せて周りからも愛されるためにこそ、本当に原因を追究するべきでしょう。
プロフィールを拝見させていただきましたところ、冷静な自己分析ができておられるのですが、もう一歩踏み込んでみてください。
そうやって自分を責めるようにしていても、肝心かなめの、本当の原因をやはりスルーしているんです。
だから、いつまでたって自分に向き合えないのです。あなたが本当にそれを治したいのだと思って、愛としてざっくり申し上げますが、わたしは禅宗坊主ですので、参禅者の方々とよくお話をします。坐禅会に来る人たちというのは、ある種坐禅マニアとか誤解されていますが、全然違います。
実はとても立派な方々なのです。
問題の原因を人のせいにせず、本当に自分自身に責任と原因を見出した優れた方々です。
それを静かに見つめて、本当にどうあるべきかを模索されているのです。
「私が悪い私がイケない…」と自分責めして、そういう反省の言葉を言っているだけじゃダメなんです。本当に、彼らのように自分の心に原因を求めてください。それをしなきゃ仏道は始まりません。
そして、その心の中の、どういうポイントに問題があるのかを、追求すれば答えはある一点に絞られます。
自分に不都合な事は全て外に原因を求める。そして、いくら外に求めても外に原因が無い。なかったはずです。だからこそ、原因が見つからないまま、今日にいたった。
最大の原因は、自分のエゴ越しのものの取り扱いです。
悪いことではありません。それを治しさえすれば問題は本当に即解決です。
うちの坐禅会は世間様の坐禅会と違い、その一点を本当に修正します。だから、確実に変化が出ます。本当に何とかしたいと思われましたら、埼玉に旅行のついでに親子で坐禅会にお越しください。いい思い出になるかもしれません(^_-)-☆

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様
本当に有難いお言葉、ありがとうございます。
自分でも薄々気付いていたものの、見ないようにしていた気付かなかったことにしてしまっていた事を提示していただきました。
これから前に進む為、行動をします。
ありがとうございます。

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