人が嫌いなのに人に寄り添いたい
はじめまして。いつも拝読&勉強させていただいております。今回はお坊さんの方々の意見が聞きたく、質問させて戴きます。
自分は去年の年末に、会社の仲間の何て事無い一言からフラッシュバックを起こしその辛い記憶から自分を切り離したい為にカッターを腕に当てました。
親にも、自分を心配しながらも見守ってくれている会社の誰にも腕を晒すことが出来ず、「気付かれたのではないか」「非難されるのではないか」と人に怯えて、波のように押し寄せる衝動に負けて今日まで更に傷をふやして、人を遠ざけてきました。
一年も後半に差し掛かり、少しずつ自分に心境の変化が出てきました。「気付かれて、嫌われても自分のしたことだから仕方がない」「他人の思いまで自分がどうこう出来ることではない」「今までどうり(怯える前)の自分でいることが大事」と。
さて、上記のような思いに至った頃から少しずつ自分に“心理学(カウンセラーのような)”への興味を感じ始めました。
“自分と同じような痛み、悲しみ、苦しみを感じている人”の力になれるのではないか?何も出来なくても寄り添えるのではないか?と、身の程知らずですが思い始めました。
しかし、今の自分自身の事でいえば 介入・干渉されるのが苦手で孤独を好みあまり他人に深入りしません。他人の噂話にも加わりたくない、人と距離を取りたい人間がなぜこのように思うようになったのか、正直判らずにいます。
カミングアウトもできないような人間が他人様の助けになることは出来ないですよね?
長文で判り難いかもしれませんが、お坊様の考えを聞かせて戴けましたら幸甚です。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
そわか(幸あれ)
私は高校生の時、人が大嫌いでした。同級生はガンガン無視していましたし、意味もなくレジの店員さんにガンたれたりしていました。とっっっても黒歴史です。でも、大学生になってからバイトを続け、後輩のキャリアパスに関わりながら一緒に泣いたり笑ったりしているうちに(あ、俺って意外と人が好きだったんだな…)と気付きました。んで、お坊さんになりました。
そんなもんです。だって諸行無常だもの。人は変わって良いのです。変わるのが自然なんです。だからカウンセラーになって良いのです。人に寄り添って良いのです。他人様の助けになって良いのです。なんならまかり違ってお坊さんになっても良いのです。ギャーテーギャーテー、ハーラーギャーテー、ハラソーギャーテー、ボージー、ソワカです。この河を渡っちまえ!幸あれ!です。
この世界は原因と結果の網の目のような繋がりによって成り立っています。私たち人間もその網の目の1つです。で、あるならば、私たちは自分に繋がる原因を1つ1つ大切にしていくことでしか、自分を大切に出来ません。つまり他者を大切にすることこそ、実は自分を大切にする方法だということです。きなこさまが目指す道は、きっときなこさま自身の救いになりますよ。
さて、もう言う必要は無いと思いますが、自傷行為は意味が無いです。私も指を焼きましたが、過去の苦しみを刻印しただけでした。逆効果ですね、あれは。どうしても傷痕の違和感に意識が向き、かえって思い出してしまいます。もしまたやりそうになったら「お坊さんが逆効果だから止めとけって言ってたから止めとこう…」と思い出してください。
カミングアウトは機縁が満ちれば自然とやってしまいます。お坊さんなんてカミングアウトが仕事みたいなものですが、仕事になれば心境も変わります。制服の力とか場の空気もあります。その辺は気にしなくて良いです。
心理学を学ぶときは時代順に学ぶのはオススメしません。古典的心理学は人の認知の間違いを探し出して早期に対応することを主眼としているので、自分も含めてガチで人を信じられなくなります。カウンセラーなら臨床心理学ですね。
ぜひ頑張ってください。人は変わって良いのです。
お寺は苦しみをわかちあうところだと思っています
仏教の最重要教義は「一切皆苦」です。
この世界に生きているということは、なにひとつ、自分の思いどおりにならない。
すべてが苦悩なのだ、ということです。
仏教の目的は、苦悩をいかない軽くするか、この苦悩に満ちた世界をどう生きるか、です。
カウセリングや精神医学だと、「治療するものと、されるもの」に別れていますよね。
しかし、仏教はそうではないのです。
私の卒業した僧侶養成学校では、「職員、学生の区別なく、ともに、仏から直接教育されなければならない存在なのである」といいます。
すべての人間が苦悩している。
仏教に縁のある人達は、上下関係ではなくて、みな平等に、仏様(真宗だったら阿弥陀如来)から、直接、教育されなければならないということです。
どちらかが、どちらかを救うのではなく、みなともに、仏から直接、教化され、救われていく。
それが仏教だと思います。
大丈夫です。できます。
拝読させて頂きました。あなたがその様な想いに至ったことは大変素晴らしいことかと感じました。人が嫌い、それでも人と縁を結びながらしか生きていけないそれが私達でございます。
どのような経緯にしろあなたの心の作用がそう至ったことはこらからあなたの言動にて救われていく方がきっといらっしゃることでしょう。
私もそうですからね。私も子供のころから精神的な障がいを持っており、今もそうです。
ですから私にできることは限りがあると思っています。それでもどなたかの役に立てばと思っております。傷つき苦しい思いをしたものでなけらば本当の苦しみは分からないです。
人の苦しみを全て取り除くことは私達には無理かとは思いますが、ほんの少しでも人の苦しみを取り除き解放して頂ければといつも思っています。
あなたにもどうかご自分の今までのことを糧に多くの方のお力になって頂けたら素晴らしいことです。
あなたのその様な想いや行為は必ず仏様やご先祖様が見ていて下さります。そしてあなたをいつも守って下さいます。
どうかこれからあなたが思うように苦しむ方のお力沿いなさってくださいね。私も微力ながらがんばります。お互い適度に頑張りましょう。あなたをこれから応援させていただきます。
質問者からのお礼
大慈 様
回答を早くに頂戴しながらお礼が遅くなってしまってすみません。何度も読み返させていただきました。いまだに心が振り子のように大きく振れてしまって、質問に書いたような思いを持ちながら心がグラグラと揺れるのを感じる時があります。
自傷の経験のお話、大変為になりました。
今までは、「自分を大切にできない人は、他人を大事にできない」という言葉を良く聞いてきました。(自傷があるが故に自分を苦しめていました。)大慈様の回答コメントと逆なのですね。。大事にするのは自分なのか、他人なのか、順番は関係なく同じ意味なのか、奥が深い言葉ですね。今回の経験を自分の糧と出来るように、大慈様の回答を思い返しながらゆっくりと自分の内を成長させていきたいと思っています。ありがとうございました。
佐藤精徹 様
なるほど、「みんな平等に」というところが肝要なのですね。自分は仏教の世界についても勉強が足りないもので、学ばせていただきました、ありがとうございました。まだまだ佐藤様の回答コメントから多くのことを得たいので今後もこの回答をじっくりと読み込んでいきたいと思います!
一向寺 kousyo Kuuyo Azuma 様
お礼が遅くなりまして申し訳ありません。 正直に言うと、今でも苦しい時があります。自分に誰かを助けることができるだろうか、行動で救われるという人はいるのだろうか?(傲慢ですね。。)自分を大切にできない自分が?? でも、悩んで、涙を流してアドバイスも貰えずに苦しんでいる人にほんの少しでも考え方の転換の力添えになればと思う時もあります。。
未だに自分自身が悩み・苦しみ、希望、の振り子の中ですが、この中から見つけた小さな答えが誰かの糧になるように自分のご先祖さまや仏さまに見守られ、お力・お知恵をお借りしながら適度に頑張りたいと思います!