hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

夫以外の男性の好意を意識してしまいます

回答数回答 2
有り難し有り難し 11

結婚してもうすぐ一年。夫とは、毎日のように互いの存在に感謝し、好きだよ、と互いに言葉でも伝えるようにしています。善悪の判断など良く似ていて、伴侶として生活し易い相手だと思います。たまに夫の物言いがキツくて泣いてしまいますが、ふとした折に、具体的な理由があるわけでなくとも、この人好きだなぁ、とつくづく思います。

ただ、他方で、私が結婚していることを知っていても、私の職場に、ことあるごとにウインクしてきたり、私がいい仕事をすると、良くやった!と横から腰をぎゅっと抱き締めたりしてくる外国人の男性上司がいます。二人きりでのデートに誘われるわけでは無いのですが、職場の他の女性と私とでは明らかに差のつく好意の示し方をしてくるので、何故なのだろうと惑わされています。彼の国ではセクハラは日本より厳しいので、かなり大胆だと思いますし、ボディタッチされても嫌だと感じ無い(むしろ上司が可愛がってくれて嬉しい)自分にも驚いていますし、彼が出張で日本に来ている日はおしゃれをしようとか、彼を少なからず意識してしまいます。

夫と別れてこの男性と付き合いたいとはゆめにも思わ無いのですが、このままだと、彼のことが益々気になったり、何かのきっかけで過ちを犯してしまうのではないか、と、自分が弱くなっているような気がして怖いです。彼が本国に居るときも、彼のことを思い出したり、考えたりしてしまう自分は何なのだろうと、よく分からず苦しいです。

私は、何か精神的に満たされていないのでしょうか?どうしたら良いでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

恋は決して悪いものではありません。
しかし、恋に溺れてしまってもよくありません。

いい人だと感じているだけならいいですが、既に相手に何かを期待していませんか。

旦那様を失う事を覚悟できるのであれば行動に移すということです。

その場の感情に流されず冷静に判断してください。

{{count}}
有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

愛されたい願望

ご主人に、焼きもちを焼かせないように、そのまま話して自分の方に気を向けてくれるようにお願いすることです。
異性への愛情の求め方は人によって異なるものであると思います。
知人がそのずれでコリン星※に旅立ってしまいました。
日本の男性は、サムライ文化で、あまり愛情表現が上手ではありません。
そういう愛情表現をしてもらえるように甘える事です。
そうすれば、あなたにスキが無くなるのです。
あなたが満たされていないからスキができるのではないかと、思います。
人には承認欲求があります。愛されたい欲求もあります。分かってもらいたい、理解してもらいたいという欲求があります。悪いことではありません。
彼にもそのスキルを身に着けてもらうことです。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お二方ともありがとうございました。自分の抱く感情自体を否定しなくても、理性が保てればいいことですね。
相手が更に迫ってきたら自分の理性が保てるか不安でしたが、どんな時も一緒と決めた夫と出来るだけコミュニケーションを取ることで、何とか乗り切れました。不思議と、上司も変わり、外的要因で進展してしまうかもと恐れていたことは、起きなくなりました。

煩悩スッキリコラムまとめ