32歳にしてやっと幼年期が終わる感覚回答受付中
今年で33歳になります。
今までは映画が好きであったり、それが切っ掛けで役者をしたり、その後は人間関係にまつわる活動をしてきました。
映画が好きだった理由は、人間関係や愛情が非常に細かく描写されているから惹かれていました。
そしてそんなやり取りが自分でもできるということで役者にもなりました。
役者は色々あり辞めることになりましたが、その後から生きる意欲というか自分自身の欲求が見出せずに、実家に帰り、人間関係系のグループで活動しながらもう7年目になります。
自分は子供の頃、よく海外旅行に連れて行かれていたのですが、一度夜のバスの中で置き去りにされたことがあり、今でもその時の景色や生き残るために必死に考えたことなどを鮮明に覚えています。
また両親が共働きで授業参観や運動会にはあまり来てくれなかったこと、出かける時は決まって両親が行きたい場所についていく形で、どこに行きたいとか聞かれた事がなかった様に思うこと、誕生日も自分のケーキを自分で買いに行ったり、祖母と叔母と両親と自分と姉との6人家族だったのですが、母と叔母が折り合いが悪くギクシャクしていたこと、祖母がいたからかもしれませんが、両親ともに放任主義っぽく感じていたこと、そういった事が昔を思い出すといつも真っ先に出てきます。
最近このままではダメだと思い職業コーチングを受けて自己診断を受けていくうちに、自分という人間がすごく寂しそうにしていることと、どこかで強い挫折をしているような自分に諦めているように見受けられると言われて、昔の思い出なんかも気になったので愛着障害診断を受けてみました。
ネット診断なので確証はないですが、自分の中では今までの人間関係ややり取りに惹かれていた自分は、好きだからではなく、愛情への執着と依存だったのかなというところで、今は腑に落ちています。
勿論そのおかげで通ってきた役者などの経験は非常に貴重であると思います。
ですが好きだと思っていたことが実は依存で、それこそ子供の頃から未だに変わらず追い求めているかもしれないということに、大きな衝撃を受けています。
人付き合いの技術や経験が誰かの役に立てばと思っていましたが、それは建前で自分はただ誰かに愛されたかっただけなんだと知りました。
今更ですがやっと幼年期が終わり成人した気分です。
正直何をしていいのか今はもうわかりません。
お坊さんからの回答 2件
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「誰かの役に立つ」が素晴らしい
ゆう 様
愛着に不安定を感じると、誰でも依存的になったり、回避したりと対人関係に苦労したりします。
だからといって、貴重な体験からくる「誰かの役に立てば」という思いを、依存だったと自分を貶めたり、責めたりする必要はありません。
「誰かの役に立つ」というその思いは素晴らしいのです。
あなたはあなたのままでいいじゃないですか
愛着は障害ではなく愛着スタイルという個性です。あなたの取り柄なのです。依存的になり過ぎて相手を傷つけるような言動は慎まないといけませんが、ようやく成人を感じたというのですから、自分で依存的なところをコントロールしていけばいいのです。
依存になり過ぎそうだなと思った時は、自分を責めずに、依存になるのは育ってきた環境のせいで、自分のせいじゃないと思い、自分に思いやりや優しさを向けて、依存になり過ぎない行為は今どんな行為だろうと、穏やかに自分の心に意識を向けて、行動をとっていけばいいのです。
さらに、自分を癒やしたり、安心安全を感じることをしていきましょう。愛されたかっただけとショックを受けているときは、癒しが必要ですし、自分なりの安心安全を感じることが大切です。そして、心が穏やかで落ち着いているときに、こう考えましょう「ベストな自分はいま何をするだろうか」と。
もしかしたら、人付き合いの技術や経験を伝えることをもっと深めることかもしれませんね。
参考にしてください。
一礼
ウチの宗祖もたぶん。。真宗はネットよりノウハウあるよ
ご質問ありがとうございます。
何回か繰り返し、質問を読ませていただきました。
このご質問が言語化・文章化されるまでには結構な時間や、勇気を費やされたのかとお察しします。
率直な思いを聞かせてくださりありがとうございます。
真宗の開祖、親鸞聖人は、幼少の頃に父母と離別、9歳で里親の叔父からも離れ京都の青蓮院で出家。比叡山に籠ったと聞いています。でも人との関わりを求め山を下り法然上人と出会いました。
診断を依頼したサイトが、愛着障害の克服についてどの程度のノウハウを持っているかは知りませんが、愛着障害という言葉が出る前から、足りないものを渇愛する餓鬼道ではなく菩薩道に往くため、真宗はずっと考え続けてますよ。
私はネットの診断よりもゆうさん自身が語った言葉の方に関心があります。
・役者をやめた後から自分自身の欲求が見いだせない
・置き去りにされたときの景色はゆうさんの中に鮮明にあり続けている
・幼いながらも生き残るために考えたことがあった
・自分のケーキを自分で買いに行った
・自分はただ誰かに愛されたかっただけ。
・何をしていいのか、今はわからない。
など、ご自身の思いを率直に語ってくださりありがとうございます。
この言葉たちに触れて私の中に浮かんできた思いを少し述べます。
まず、「わかる」と「できる」は違うと思っています。
今は、自分のために何もやりたくない心境であれば、
まだ何もしない時間を過ごす方がいいように思えます。
何をすべきか選択するヒントを所望されているのであれば、
ゆうさんがすべきことは自分自身へのねぎらいです。
32歳のゆうさんなら、あの頃のゆうさんをねぎらうことは可能です。
一日一回 深呼吸して 自分の手をその日気になる部分に当てて
「つらい時期は大変だったけど頑張ったね。えらかったね。」
「今日も一日お疲れさま、わたし」
と自分自身に語ってあげてください。
なんなら、お経もあげてください。
人は植物と違って自分自身で栄養をつくり出せません
誰かに何かを施すことで、他者からの恩恵に預かることも少なくないです。
自分や人を責めない方法で、ゆうさんがこれまでの人生で得た経験を他者に施すことができれば、愛着以上の慈悲のはたらきの恩恵を享受できると思います。
・今更ですがやっと幼年期が終わり成人した気分です。
これからですよ。
なんまんだぶつ