私の生き方は間違っていますか?
人を騙し、傷つけ、悲しい思いをさせた上での自分の幸せ、って
成り立つのでしょうか?
自分はそんなことはしようと思いませんが…
でも、やってしまう人間もいる。
忘れるしかないのでしょうが、どう考えていいのかわかりません。どのように考え、生活していけばいいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「自覚」させられる生き方
「人を騙し、傷つけ、悲しい思いをさせた上で」幸せに生きているのが私たちではないでしょうか。
私たちの思う幸せとはそんなものかもしれません。
受験に受かって幸せ→落ちた100人が悲しみ泣いているかも
結婚して幸せ→相手を好きだった人が傷ついているかも
生きるということは「騙し、傷つけ、悲しい思いをさせた」上に成り立っている面もあるのでしょう。
私たちは多くのいのちを「騙し、傷つけ」生きています。私たちに食べられるために生きてきたいのちなんてないですからね。それを「食べ物」として騙して傷つけ「生き物」のいのちをいただいて生きています。
では、人間以外はそうでも、人間は傷つけていないと言えるでしょうか。そんなことはありませんよね。生きるということは迷惑をかけることです。お互いに迷惑をかけ、許し許され支えあって生きています。
ですから大事なことは、そうした事実を「どこまで自覚しているか?」ということかもしれません。
しかし、私が私の頭で考えた自覚など上っ面です。
「はい、感謝したらいいんでしょ?」
「なるべく迷惑かけなきゃいんでしょ?」
「私はそれができているから大丈夫」
そんなものでしょう。本当の自覚とは「自覚させられる」ということです。真実から私の現実を突きつけられるということです。
他の誰でもないこの自分が「人を騙し、傷つけ、悲しい思いをさせているのだ」と気づかされ、頭が下がるということ、そこに懺悔するということでしょう。
他人が何をしていて、何をできていないか、ではなく私がどう生きているのか。
その自覚に促されたとき、他を見る目は違ったものになるでしょう。「人を騙し、傷つけ、悲しい思いをさせている」事実を共に悲しみ、共に真実を求めようとするあゆみがそこに生まれるのだと思います。
生きていく中では色々な境遇の悲しみがあります。縁の中で様々なことを「不幸」として納得できず悲しむ私がいるでしょう。
しかし、仏様が悲しんでいるのは、私が本当に悲しいことを悲しめていないという事実です。
正に。「人を騙し、傷つけ、悲しい思いをさせている私」ということです。
今、あなたが生き方を問われたところには、そんな仏様の願いがはたらいているのです。