hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

そろそろ再婚の意志がほしい。

回答数回答 1
有り難し有り難し 9

お互いに40代後半、離婚歴、子供ある方との交際についてです。4年程付き合っています。私の子供達は学生で、離れて暮らしているので現在は一人暮しです。一方彼はまもなく一人暮しをする子供と母親、三人です。
最近、彼の母親が入退院したため、彼が家の事を一切やることになり、会うことも含めて、忙しくなりました。一人でいると、その寂しさで苦しくて、頭がおかしくなりなります。つい、彼に寂しさをぶつけたり、平常心が保てなくなります。
彼に、はっきりと将来の事を、具体的考えてもらえたら、少しは落ち着くと思います。でも、彼は、母親や家の事に夢中で、あまり要求することも躊躇しています。相手に依存し過ぎず、お互いにいい状態にするには、私の心のあり方など教えてください。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

相手に期待しないで自分の女性力、人間性を高めるあるのみ。

厳しいですが、男女の関係はいつでもそれが答えです。
あなたはよりどころにするべきものの優先順位を誤ってはいけません。
まず、自身の心をふらつかせない様にするためにも、何かを得ようとしてはいけません。
単純に私と一緒になって下さるつもりはないのでしたら、この関係もそろそろ終わりにしようと思います、とお伝えしてみてください。愛のある男だったら、そこでそういう反応が見られます。
再婚の意志がなさそうでしたら、基本自分ラブの人間でしょう。
愛のある人であれば、あなたを選ぶでしょう。
お互いに都合のイイ関係になり続けないためにも、時には真剣に問いかけることです。
失礼ながら再婚同士であれば、ドラマチックなプロポーズも期待できません。それよりも今後のお互いのパートナーとなり得るかどうか。その関係の品質が本物がどうかだけです。
ただ、再婚することによって相手の家族から嫌われるケースも当然ありますから、人間の心情をよく理解して、あまり自分自分しないことです。自分を中心に物事を判断すると、ケッ、アタシの扱いはそんなモンかよ、と卑屈になるからです。
ですが、相手まかせですと、変化がなければずっとダラダラ、ダーラナホース(馬の置物)です。
よって、女の意地を見せましょう。3回か、4回と限りを決めて彼を真剣にこちらに振り向かせる。
婚姻届けも書いておきましょう。期待せず。
ダメージが大きくならない様に、あまり期待せず。
あと、前回の離婚のことも考えて、10000000000000歩ゆずって(スゲー譲ってる)、何が原因で別れたのか。自分の原因があるとしたら何所がアウトだったかをもう一度、相手のせいにばかりせず、自分にも原因を求めてそこを削る磨く無くす。それ無しに菜根譚(再婚の意か)しても、同じことの繰り返しにならない、ともいえニャくも😺ニャイにゃん🐈。
ですがタイトル通りを実践して頂ければ何となく謎の女性ホルモンのようなものが出て、NHKもビックリな運命に似た恋が始まらないともいえにゃくもニャイです。
お気を悪くなされずに、こういう事も善意でキャッチできてこそ人間関係はウマくいくという事です。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ご回答ありがとうございました。有り難く、うけとめます。何度も読みました。思いきっての行動が今勇気がでないのと、彼の生活が家の事でいっぱいいっぱいになってると言われてるので、タイミングがつかめず、こうして、すっきりしない状態です。自分磨きやすること、求めてばかりではいけないことも頭では理解していますが、悪い解釈ばかりしてしまいます…
少しずつでもいい方向にいけるように祈ってください。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ