hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

物にも魂?

回答数回答 1
有り難し有り難し 13

ふとした疑問です。

言葉には言霊があるといい
プラスなことを言うと
実現に向かったり、、、よい方に向かう
なんて言われたりしました。

それは確かにとは思ったりします。

どうして物にも言霊と同じような
そういうのがあるのかと疑問に思いましたかというと。

人間だれでも、物をいただくということがあると思います。
物でも形が残るものと残らない物があるかと思います。
私は形の残るものでも残らないものでも
いただいたらしばらくもったいなくて使えなかったりします。
でも最近、頂いた物が形の残る贈り物でした。
欲しかった物だし嬉しいし、いつ使おう!なんて
るんるんな気持ちになるのですが、
ふといろんなことを考え始めてしまい
使っていいのだろうか、、、と思うようになりました。
でも使わないと相手の気持ち?に失礼かなとか
物にも失礼かな?って。

言霊のように、物にも魂というか
そういったことがあるのでしょうか?
仏教の世界ではどうお考えになるのでしょうか。
とても気になりました。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

唯心造

ものはただそのものです。
言葉はただその言葉の通りです。
「はじめに事実ありき」それが人間のモノを眺めた時の根源的なありようです。
ただし、これはドライな意味としてのものではありません。
者の本源をみるからこそ、そのものの存在の関係性を知ることも同時に知ることが出来ます。
一つの絵画にしても誰がどのような思い入れで描いたのか。
座布団一つ、枕一つにしても、誰がどのような思いで作ったのか。
何気なく使っているスマートフォンもパソコンもイスも電気も本当に本当に素晴らしいものです。
みんな人や天地自然の息吹がそこに吹きこまれているものです。
人間の素晴らしさはあなたのようにそこに思い入れや付加価値や命を見出せる素晴らしい宗教心、感性があることです。
その天然の宗教心とでもいうべき心は、周りとの関係性を感じることによって引き出されます。
反対に、悪い意味で自分を中心に自分の都合で物事を観ると、ものや世界の方から追放されてしまうのです。
たとえは変ですがアイドルの握手会ではファンがアイドルと握手する時は、その時、その瞬間だけは、ひとえにその人の為だけに関わってくれているのです。
いま、ふと、視線を向けたものや思いを馳せたものは、確実にその時そこであなたと関わって下さる最高の贈り物なのです。そこに命ありと言わずして、何と言いましょうか。
そういう血の通った人生を今後も歩んでください。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼が遅くなりすみません。
回答ありがとうございます。
なるほど、、、と思い、日々考えています。
今後も血の通った人生を歩んでいきます。

煩悩スッキリコラムまとめ