hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

全てが気になる

回答数回答 1
有り難し有り難し 20

私は小学6年生の時に学級崩壊を経験しました。
毎日イジメのターゲットがかわり、今日はちゃんと授業が受けられるのか…今日はイジメのターゲットにならずに1日を終えられるか…と毎日そればかり考えていました。
小学6年生まではどちらかというとポジティブで明るい性格でしたが、その学級崩壊をキッカケにネガティブで暗く人の目を常に気にしてしまうようになってしまいました。
その性格は今も続いていて、子供の幼稚園で知り合ったお母さん達との会話やメールでも「他の人への返信よりも私に対する返信が冷たい、絵文字があの人よりも少ない、話しているときに私と目を合わせてくれない、私といると嫌そう」など、相手の全ての行動をいちいち気にしてしまって勝手に疲れ果ててしまいます。
気にしないようにしようと自分に言い聞かせても気づくとやはり相手の行動をチラチラ見てしまって落ち込む毎日。
こんな自分に本当に疲れます。
なにかアドバイスなどありましたらよろしくお願いします。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

きっかけはそれじゃない それであってもそれのせいにしない

❝毎回❞それをやっているのです。
毎回、そういう想念を付随させたものの見方をしているだけです。
人生が自己という作品を披露する日々であると仮定します。
実際、世界の大半はSNSなどを通して、自己を世間に知らしめるような活動が中心になっている人もいます。
自己アピールな世界では他者からの「♡評価👍」がつきものです。
人の評価や反応、手ごたえを得ようとして活動をする部分が強くあるからです。
誰も観る人がいないのに幸せアピールや「今日はお昼に◌◌食べたよ~♡」とか、アップしても誰も観る人が居なかったら既読スルー以前に、存在自体がスルーです。
評価というものは本当は人がやっているのではないのです。
たとえば人から評価されたとしてもその無限の評価の中で誰の評価を自分が採用するか。
評価する人が一人しかいなければ、その人の評価は大きく影響を及ぼすものでしょう。
ですが、フォロワー数が沢山いる人はコメントが殺到します。
相手がどんな状況下で、どんなテンション、気分、雰囲気でコメントや評価をしたかこちら側は全く分かりません。
結局、自分が気になったコメントや評価を❝自分❞が取り入れている。
つまり、評価というものは「自分がやっている」に過ぎないものなのです。
人が評価したとしても、それを取り入れたり、気にしのが❝自分だ❞としってください。
さらには、自分の中の自己内評価も同様です。
無限に沸き起こる思い・想念の中であなたは拾い上げなくてもよいものを❝あなたが・自分で❞拾い上げては、その自己内想念という何も拾い上げる必要すらないものを、ピックアップして鍋に入れて火入れして煮詰めて焦がして煙をモクモクとしょうじさせ、おまけにそれを食べて身も心もむしばんでいる…、ようなことをしているのです。
そこの自覚を持ちましょう。
今自分がそういう事をしているのは、誰かのせいじゃない。
自分がボンヤリとした自分の意志でそれをしているのです。
「え?自分でやっている?」と思う人と、
「ああ、本当だ。オレがやっていた。」と自分で向き合るかどうかがあなたの天国・地獄の分かれ道です。
人の評価に振り回されないとは、己の心に動じないことです。
自分の評価に苦しめられないという事は、自己の想念を放っておける強さを持つという事です。
総じて、自己の想念に振り回されない。
禅を学ぶと良いでしょう。

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ