hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

彼との将来

回答数回答 1
有り難し有り難し 12

私には今付き合っている恋人がいます。
私が就職するのに合わせて、彼は自分の仕事を辞め、
私が住む地域で新しい職を探すと言っています。
正直な話、私は彼の人生にそこまでの責任はもてないと感じてはいます。

彼には大きな問題が一つあります。
それは、食べ方が汚いことです。
箸の持ち方もおかしいし、くちゃくちゃ音を立てて食べます。
私の母はそれをいやしいと言いますし、
私自身そう思っています。
何度も注意していますし、彼自身も反省していますが、改善していません。
今では私は彼と一緒に食事をとることが苦痛です。

このままでは結婚したくないと思います。
なぜなら、彼と一緒に暮らしていると、
たとえば将来子どもが生まれた時に、
正しい食事マナーを教える時の障壁になる可能性があるからです。

しかし彼は結婚するつもりで転職する予定です。

さて、私は、彼の食事マナーを我慢し結婚したほうがいいのか、
それとも、彼の転職は応援し、彼の食事マナーが直るまで結婚を控えるべきなのか、
それとも、彼の人生の責任は負えないため、彼の転職自体を否定するべきなのか、
どの道を選べば、私は幸せになれるでしょうか。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自己愛>愛なら結婚そのものをしなければよいかと。(-_-;)

結論:アンパンの上の🌸サクラに罪無し
私の知人にもくっちゃくっちゃ音を立てて食べる人がいます。
別に問題になりません。
その人の食事の食べる行為がその人の何割を占めるというのでしょうか。
近所を通る物音と同じようにいつか気にならなくなるでしょう。
気にすれば気になるということ。それは気にする人がモンダイなのでしょう。
ここは深く追求すればご飯の食べ方が日本人の様にお上品ではない国の人にも失礼というものです。
よってアンパンの上の桜漬け、キャラメルコーンの中のピーナッツくらいに思ってあげてください。
家の中で猫を飼えばあっちこっちにマーキングしたり、爪をとぐためにひっかきますし、エサが合わなければげーげー吐き戻します。
本当は彼の食べ方が問題なのではなく、あなたのプチ完ぺき主義や人目を気にすることがモンダイなだけのような気がします。
どんなイケメン、カネモチでも必ず何らかのオプションがついてくるものです。
ところで、あなたは自分のことしかありませんが、あなたには、そういう面はまるで何もないのでしょうか。
私から申し上げれば、あなたは自分んことしか頭にない「わたしが」「わたしが」な人にしか感じません、ぶっちゃけ。
結婚に結びつく愛というのは、そういう面も愛せることが愛であるような気がしますが。
ぶっちゃけますと、多分、それ、愛じゃない。自分ラブ、自己愛ではないでしょうか。
あなたの自己愛の方が>彼を思う気持ち♡より強いと思います。
そんな事で幸せになるなれないとか、自分でもチョト違うとか思いませんか?(^<^)
条件付けの結婚などやめた方がいいです。
「自分のことしかない」「自分自身を顧みることの無い」質問者さんには私は厳しいです。
「有り難し」は不要です。その指を彼の悪い所探しばかりする口を閉ざすか、自分自身に向けられてはいかがかと。もう少しあなた自身に眼を向ける気持ちを持ってもらいたいと感じました。☞ 失礼いたしました。(^-^)

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

昨日一緒に食事したら彼のくせが直っていました。質問した結果を役に立てることが出来なくてごめんなさい。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ