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私が悪いのでしょうか‥

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この四年で、父、夫、母を亡くしました。
私は、二年前から足が悪くなり、家の中を歩くのがやっとの状態です。
私の大切な人が次々といなくなってしまいました。
私の行いが悪いからなのでしょうか。
私がいけないから、皆を不幸にしているのでしょうか。
今も、私が歩けないため子供に心配と迷惑かけてしまいます。
本当は、誰にも迷惑をかけずに、一人で、しっかり生活していきたいです。
どおしたら、今までの行いを許してもらえるのでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分に向き合う機会を与えて頂いた

ご身内が亡くなるというのはあなたのせいで亡くなるという事はありません。
足が悪くなられてしまったのは食生活をはじめ生活習慣によるものとみるべきでしょう。
死という事はしかるべきものであって、あなたが死に追いやった訳でもなく不幸にたわけではありません。
それは思考というものです。
考え方の上で「わたしのせい」「わたしがわるい」という事を自分のディスプレイで何度も繰り返し再生されているではないでしょうか。
「今も、私が歩けないため子供に心配と迷惑かけてしまいます。本当は、誰にも迷惑をかけずに、一人で、しっかり生活していきたいです。 」
そう思って、孤独死をされて発見が遅くなった方を知っています。
遺族としては、そっちの方がもっと悲しいものだそうです。
甘えられる心をもちましょう。
患者さんのように、介護され上手になれることも大切です。
坐禅は、一切の罪障を滅除します。
わたくし意識が滅するからです。
人が善し悪しに思いに苦しめられるというのは「自分」を立てているからです。
自分を基準にしているから良い悪いが生まれるのです。
「人、懺悔せんと欲さば、端坐して実相を観ぜよ。」
もし、あなたが真剣に懺悔したいと思ったら、坐禅をとおして、ものの実相が人間の善し悪しを離れている姿として存在している事を明らかにすると良いでしょう。
仏にすがって懺悔するのも、私を離れるからです。
私を優先させている内は、懺悔しても懺悔になりませんし、家族のお世話になることもできません。
私という意識を離れて、生きること。
私という意識を中心とさせずに生きること。
別に空っぽになりましょうとか、枯れ木のようになるということではありません。
ものを眺めるにも、何をするにも、ワタクシを差し挟まずに行うという事が「わたし」を離れるという事なのです。
「仏道をならうというは自己をわするるなり」(道元禅師)
〈仏道をならうという事は自我意識を坐禅や仏行によってはなち忘れた安楽なるこころに目覚めることである。〉
それが人間の生き方史上、もっともと尊いものです。
菩提心を起こして、自利欲得の心をはなれて一切の人たちの為に尽くしたいという気持ちを持ってください。そして、この身心も無常なることを知り、すでに過去の罪から解き放たれているという実相を明らかになさることです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございました。
ご身内が亡くなるのはあなたのせいではありません。死というものは、しかるべきもの。と言う言葉に涙がでました。
座禅で、自分と向き合う。是非、行ってみたいです。
まだ、お寺に行く事はできないので、正しいかわかりませんが、仏壇の前で、静かに目を閉じてみたいと思います。
そして、歩けるようになったら、是非、お寺に行かせてもらいたいと思いました。
本当にありがとうございました。

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