どうして辛いことが重なるのですか?
今、親の介護と育児と夫の海外赴任が重なり困り果てて先日ご相談したばかりのものです。
今度は自分に婦人科系の病気があることがわかりました。今を乗り越え、時が経てば子供ももう一人と考え、それを先の希望にしていたのに、それすらも私から奪っていこうとしています。
なぜこんなにも一度に苦難をお与えになるのでしょうか。私はなにか悪いことをしたのでしょうか。辛すぎます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
なぜ?どうして?からの問いの転回
どうして辛い事が重なるのか?
そう問わずにいられない状況が現実としてこの世にはあります。
なぜ?どうして?と問うた時、仏教的に答えるならばそれはそうなる原因があってのことだという様になるのでしょう。
さらに、どうしてその原因が整ったかを突き詰めて考えていくならば、それは人知では図り知れず、言うならば「たまたま」というある意味で残酷な答えに行きつく気も致します。
そして厳しい事を言うならば、「なぜ?」と問うて原因・理由があきらかになったところで、今まさにそうなっている現実は変わりません。
人間の人生とはそういう意味で極めて受動的なものです。人生において何が起こるかということはほとんど選びようがありません。
大震災に遇った人も遇いたくて遇ったわけでもなく、何か悪い事をしたからそうなったわけでもないでしょう。図らずもたまたまそこにいた、という事実があるのみです。
我々に与えられた自由というものは起こってくる出来事に対して「どのような態度をとるか」という自由です。
悲観的になるも、希望を捨てず立ち向かうのも自由なのです。V.E.フランクルはその「どのような態度をとるか」という自由がある限り、我々の人生から意味が失われることはないと説きました。
我々が人生に意味を問う前に、人生から我々が意味を問われているのだ
という人生の意味における観点の転回です。
なぜ?どうして?
から
どうすべきか、どうしたいか、どのような態度をとるか
その一つ一つの選択にかけがえのない尊さがあります。人生とはそうした選択の歴史でもありましょう。もちろん選択が実現されるかは仏教的に言うならばこれまたご縁によりますが、選択を実践するところから何かが始まります。
「こうしたい」「こうなるはず」
と想定した希望が実現されていく事は人生の楽しみ・生きがいでありますが、想定が外れてもなお希望を捨てない態度をとり、新たな選択をしていくところにより深い意味が展開されていく気がしてなりません。
どうか、今の現実に対し「私がなにか悪い事をしたのか」とご自身を責めないでください。そこの意味を問うよりも、これからどうしていくかの歩みに新たな意味が開かれてくることと思います。
質問者からのお礼
なぜ?なんて考えても仕方のないことを質問してすみませんでした。
自分の処理能力を超えた事象に、ついふとした瞬間に考えることをやめてしまいそうになり、人生の意味を放棄しようと考えていました。
すべては焦りと不安によるものであり今、目の前にある問題から逃げられないのに、逃げようとする悲劇のヒロイン気取りな自分。母親のくせに本当にくだらないちっぽけな人間だと気づかされます。そこに幻滅したというのもあるのかもしれません。結局自分しか見えていなかったです。冷静にさせていただいてありがとうございます。
今私のそばにある未来ある子供を守る。そこに専念しようと思います。