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恋人が好きだけど不安です

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私には付き合いだしたばかりの恋人がいます。

バレンタインに私から告白し、ホワイトデーに付き合うと返事をもらいました。付き合いだしてまだ1ヶ月も経っていませんが不安や悩みがあり辛いです。どうすれば解消できるか、お力を貸していただきたいです。

その悩みとは、『彼を信用できない事』と『自分に自信が持てない事』です。

まず、私は自分に過剰に自信がなく、とても彼が自分のことを好きだとは思えません。見た目も平凡だし、考えすぎる性格で面倒くさいし、頭も悪いし、という感じです。
それゆえ、彼がふざけて私をバカにするだけでも、(彼の前では明るく振る舞いますが)「嫌われたかもしれない」といつもいつも不安です。

また、彼は私を好きで付き合ってるのではなく、お試しで付き合ってる感じです。
彼は私から告白され、本当に真剣に悩んでくれました。友人や先輩にもたくさん相談したそうです。しかし、結論を言うと「すぐ別れるかもしれないけど、断る理由もないし」という感じで付き合ってくれています。
そのため、いつ振られるか分からないという不安で苦しくなります。

彼は私の話を真剣に聞いてくれるし、会いたいときは少しでも時間を作って会ってくれるし(わがままかと思ってあまり誘えませんが)、頭を撫でてくれたり、抱き締めたら抱き締め返したりしてくれます。
嬉しいこともたくさんあるけど、ちょっとした言動で一気に不安になったり、ドン底のような気分になったりします。
嬉しいことはその瞬間、一瞬だけなのに、辛いことはいつまでもまとわりついて、不安で不安で仕方なくなります。

でも私は彼が大好きです。一緒にいたいです。どうすれば、少しでも不安が減りますか?彼を信じられますか?自分に自信を持てますか?

長々と申し訳ありません。お力貸していただければ幸いです。最後まで読んでくださりありがとうございました。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

まずあなたから振っちゃいなさい

あなたのその内面をそのままお伝えした上で別れちゃったらどうでしょうか。
それでも彼があなたを必要としてくれて追いかけてくれるならばあなたの不安は消えるでしょう。人間、嫌いになったなんていうのは一時的な感情で、好きになった、というのも一時的感情でぶっちゃけ根拠も無い感情であったりするものにて。
芸能人だって、タイプのタレントさんがいるでしょう。
その本人が目の前に現れて口説かれたら今の彼氏なんてどうでもよくなっちゃうかもしれないのが悲しき人間の性(さが)というもの。
大人の世界から少し厳しく真面目な事を言っちゃいますと、
「好き」っていう言葉って信じるに値しない言葉です。
そんな言葉や評価を第一優先するより、一緒にいて関われることが沢山あって、楽しいことの方を優先するべきです。まだお付き合いしたてで何をどうしていいかどうか分からないような状況でしょうから、だからこそ二人でどこかへお出かけしたり、なにかを共有したりすることを大事になさって下さい。
天才は人からバカだと評価され続けてきてもその評価を気にせず、それ以上の実績を残したから天才なのです。あなたたちの関係は人がどうこう言うことではない。
あなたの彼に対する気持ちや何かをしてあげたいという気持ちはあなた自身のものであって、彼が好きとか嫌いではないのですから、提供できる事、してあげられることをそのまましてあげてください。
愛は愛を授けた人が愛に満たされるのです。
愛を授けるうえで取引や駆け引きがあるうちは愛ではなく利害関係です。

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今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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