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大吉運を掴むには?

回答数回答 2
有り難し有り難し 18

1.くだらない質問ですが どうやったら宝くじの高額当選 できますでしょうか?笑

2.幸運を掴む為には 徳を積んだら良い と言う事は存じておりますが 何をしたら良いのでしょうか?
毎月 某ボランティア団体に 寸志ていどの寄付納を 行っています。他のボランティア団体を 検索してみても 自分に務まりそうなものが有りません。性格的な問題で 直接的な施しは 無理だと思います。いやいや行っていても駄目ですよね?笑
大吉運を呼び込んで 余生を安楽に過ごしたい 所存です。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

功徳とは無心なる行い

質問1について
 私も知りたいです。先ずは宝くじを買うことから始めましょう。(笑い)
質問2について
 幸運をつかむために功徳を積みたいということですが、幸運とは何でしょうか。仏教でいう幸運とは、悟りを開くことです。そして功徳とは表面的な、結果重視の行いではなく、無心なる行いです。あなたが良かれと思ってなした行いに対して、相手は一向に感謝の言葉も言わないとき、あなたは「ありがとうの一言くらいあってもいいのに。」「感謝の言葉もないとは、非常識な人だ。」などと不満を感じてはだめです。場合によっては、「はた迷惑だ。」と言われることもあるでしょう。そのときも、決して怒らず、素直にこちらから謝ることができなければいけないでしょう。
 私も50代です。お互い健康には気を付けて生活していきましょう。健康であることが一番の幸運かもしれませんね。

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有り難し
おきもち

hasunohaを訪れてくれた皆さん、こんにちは。私は浄土真宗本願寺派の僧侶です。令和6年3月に、公立高校の教員を勧奨退職しました。その後、縁あって、令和6年4月からは「まちサポ雫石」というNPO法人のお手伝い、また、令和6年10月からは公立高校の非常勤講師をしています。 浄土真宗における僧侶は、仏さまの教えに生き、その教えを伝える者であり、人を悩みから救う能力を有した者ではありません。人の悩みを救う救いの主は阿弥陀さまです。ですので、hasunohaにおける私の回答では、仏さまの教えに救われているこの私の生き方、考え方を、皆様にお見せするだけです。そして私自身、お答えできるご相談の範囲はそう広くはありませんが、皆様のお役に少しでも立てればと思い、回答させて頂いております。

立てぬ的 引かぬ弓にて射る時は 当たらざれども 外れざりけり

この道歌は、禅の教えを実に端的に説いたものです。
心の中で自分の「理想」とするものを立てるな、という事です。
そうすれば、的が無くなりますから、やましい目的意識が無くなります。
その無私なる心によって射られた矢は、どこにもあたりませんが、外れもしない。

幸せ という事においても、
「幸福」の定義は沢山ありますが、そんな的、ネライどころを立てていない時の方が、人間は何ものにも縛られず幸せなのです。
当たり外れがないからです。
あなたは当たりたくてしょうがない。
だから外れた時にガッカリ感や、ハズレ感が生ずる。
最初からそういうものを運ばずにのぞんでみてください。
必ず、ある所に当たります。
その手応えを感じてみてください。
あ、当たったら1割送って頂きますと、さらに福を呼び込みますので、是非とも、的を立てず、狙わずに、無私無心ながらに当ててください。(笑)

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ