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1年前の相談を読み返して見ました。

回答数回答 1
有り難し有り難し 42

過去の相談を読み返していました。

私は自己中心的ですか?おせっかいだったのでしょうか?

最後の質問のアドバイスを読んで悲しくなり、1年間ハスノハを閉じました。

改めて読み返し、色々思い出し、この1年間は怒りと悲しみで毎日苦しかったです。義妹家族とは絶縁状態になりました。それも私のせいですか?心配するのは余計なことですか?

年頃の姪が母親の彼氏と二人きりになることに義妹に注意したのはでしゃばりですか?

教えてください。お願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

主人公過ぎるのがNGなだけかと

はじめて回答しますね。
わたしゃ、桜が咲いたよサイタマ県の丹下カクゲンと申します。
怒りを無くすのに良い真言があります。
唱えてみてください。
力を抜いて深呼吸して…。
「オ コッチャ ヤーヨーア イーン」と。
あ、ごめんなさい。志村けんでした。
まーまーまぁ。
怒りは身を亡ぼすもの。
義理のいもーとがそーとームカつくのですね。うん。わかります。マジ、ムカつきますよねぇ。会ったこと無いけど。
過去の質問も拝見いたしましたが、あなたはまず人の話を聞く姿勢ができていないと思います。別に誰も悪いこと書いておらんです。
このhasunohaで質問をするというのは、バッターになろうとしちゃぁイカンのですよ。
上手なキャッチャーになることで救われるのです。
世間の暴投やデッドボールでカチンときたあなたは、まだ感情的になっている。坊さんの投げかけたボールまで暴投扱い。何でイチイチ打ち返したり反発したりばかりしておられるのでしょう。気持ちは分からんでもないですが。
ですが、あなたが言いたいのは言い換えれば「私が正しい!」ということを主張したがっているだけに感じます。それが怒りの原因だってご存じでしょうか。今までの坊さんは皆そこをソフトにご指摘くださっているのにあなたはみんな打ち返している。その姿勢は車の運転に喩えると運転している人でもないのに「アブナイ!」「信号変わる前に早くイケ!」「もっと飛ばせ!」と、自分が主人公過ぎる人の心理に似ています。
任せるという姿勢をお持ちになられた方が良いと思います。
あなたがそんなに正しければみんなとっくに幸せですよ。
絶縁になったり、距離を持たれるのは、アナタにも責任があるのでしょう。
人は幸せになるためにはアウトプット能力だけではダメです。インプット能力も持ってください。坊さんはアナタを責めているんではなく、苦しみを取り除く為にはあなたの無自覚な無意識の自我に眼を向けてそこをお鎮めくださいということをアドバイスしてくれているのですよ。
アナタは過去に傷ついた防衛反応で、つい自分が責められているかのように感じてつい打ち返してしまう。それはバッターの立場です。一度ピッチャーとバッターの立場を捨て、ただのキャッチャー、ベンチ組の立場から眺めてみては如何でしょうか。
学びの為には自分がバッターボックスに立たずにみることも大切なのです。落ち着きましょう♡

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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